papusza

「何を書いてるの?」「詩だよ」「詩って?」「昨日思ったことを、明日思い出すためのものさ」

 

僕はこの映画を、どう見れば良かったのだろう。

この映画はジプシーでありながら詩を作り、ポーランド史に名を刻んだ女性、ブロニスワヴァ・ヴァイスに関するものだ。

僕は彼女を知らない。その詩も知らないし、詩という媒体自体をほとんど知らない。ポーランドにおけるジプシーが「どのようなものであったか」も知らない。そんな僕から見たこの映画は、ただ悲しいだけの映画だった。

勿論、楽しいシーンはあった。ジプシーたちの彼ららしい生活や、留置所に捕らえられても、中で明るく音楽をかなでる様などは見ていて楽しかった。

だが、この映画が映すのはジプシーがジプシーでいられなくなってしまう時代だ。無理解か、あるいは非寛容ゆえに、彼らはジプシーとしての生活を奪われた。

しかし一方で、当のジプシーたちもまた、彼らの持つ無理解か、あるいは非寛容さを以って、パプーシャを攻撃した。

2年間ジプシーと共に暮らし、ジプシーに関する本を出したイェジ。彼もまた、無理解か、あるいは非寛容によって、ジプシーとパプーシャを傷つけた。

だが。無理解や非寛容は、それすなわち「価値観」だ。何かを良しとする基準こそが、ほかの何かを傷つける。悲しいことだが、それは悪いことか? 僕はそう思えない。全てを理解し、全てを許すこと。何物も傷つけないというその状況は、対極であるはずのあらゆる無理解、徹底的な非寛容と何も変わらないのだ。問題は程度であり、そして程度が問題である限り、この問題は解決しない。

イェジに手を振るパプーシャに、監督がどんな思いを込めたのか。そんな事すらも僕は読み取れず、ただ眺めているうちに、映画は終わってしまった。

この映画は確かに、悲劇を映している。だが僕はこの映画を、いったいどう扱ったらよいのかわからない。この映画はただの記録なのではないかとすら考えてしまう。僕がポーランド人だったなら、思うところがあったかもしれない。僕がジプシーだったなら、思うところがあったかもしれない。僕が詩人だったなら、思うところがあったかもしれない。

 

だが、僕は何れでもなく。見ていてただ悲しいとしか思えなかった。

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