スペース☆ダンディ第十八話

「釣りはフナに始まってフナに終わる。これ常識です」

 

現状二期で最も気に入った話。思えば一期でも五話はいっそド直球と言ってもいいような話で、僕はとても楽しめた。

日本昔話とジブリアニメが混合したような話だった。みなで寄って集って綱を引っ張るシーンは完全に「おおきなかぶ」だし、純真さの象徴のような幼子と、感情を素直に表に出さず周囲からは半ばキチガイ扱いされている頑固親父というのも実に王道。終わり方も鉄板で、綺麗に纏まっていた。

 

 

 

と、たったこれだけを書いてずっと放置してしまった。

なんといえば良いのだろう。楽しくてとても好きなのだが、それしか言葉にならないせいで他の感想が書けない。このシーンはああだ、あのシーンはこうだ、と、見た瞬間は感じたようにも思うのだが、あまりに楽しかったので続けて何度も見てしまったのが悪かったのか、それともただ単なる僕の未熟ゆえか(おそらく両方だろうと思うのだが)、曖昧模糊とした言葉以前の何かが消えてしまったようだ。いや、消えたというのは正しくない。潜水用具も釣竿も銛も何も持たずゴーグルだけで海を覗いているような感じで、頭の中に思いがあるのに、それを外の世界で文章として固定化できない。二話続けて碌な感想がかけていないのは自分でもどうかと思うが、どう頭の中を浚っても、見つかる言葉は「楽しかった」しかなく、他の思いは言葉として捉える前にスルリと逃げ出し、なんとかその形を思い出しながらキーボードをたたいてみても他人の言葉染みた違和感を発するため残しておく事が出来ない。

だが、きっといつか、この頭の中の思いを引きずり出せるようになるだろう。そしてより深くに潜む思いを見る事が出来るようになるだろう。それらを僕の言葉として残す事ができるようになる事を信じて、これからも感想を書いていこうと思う。

スペース☆ダンディ第十七話

ミュージカル回は動きには多少面白い部分もあったけど歌がどうにも乗り切れないどころか見てて恥ずかしくなったのでパス。ミュージカルの動きってちゃんと考えて組み立てられてるんだなあとむしろそっちに感心してしまった。チアガールがなんとも曖昧に手を動かしながら歌ってるのが見てて辛い。ダンディが指を指しながら踊ってたシーンはまだ見れたけど。

しかし、結局ああいうダンスは上半身だけ動かしてるようなんじゃ駄目なんだろう。頭のてっぺんから足の先まで動かしてくれなきゃ物足りない。作画の手間考えれば一部だけでもほぼ全身出してたのは頑張ってたんだろうけど、ダンスに関してはやはり毎週やるようなアニメはまだまだのようだ。そう考えると、カメラを真正面に据えてダンスを描こうとしたのは評価できるかも知れない。

スペース☆ダンディ第十六話

「男の嫉妬、焼けぼっくいか・・・」

 

湯浅回。この人は俗なキャラクターを描くのが上手いのだろうか。思えばピンポンもそうだった。僕にとってのピンポンはどうも俗世離れしたというか、透明というか、欲とは一線を画した存在達の戦いであり、だからこそ、そこを一歩退いたアクマに彼女ができ、辞めたように見えてしかしその中に留まったペコはゲームセンターなどで戦い続けていたりという描写だと思っていたので、どうも湯浅監督のピンポンが醸し出すキャラクターの、よく言えば人間らしさというものになるのかもしれない、真田が顕著だが、まあそういったものに拒否感を覚えてしまったのだが、今回はその辺りも上手いことマッチしていたように見える。スニフの声のえらそうな魚とか、飯のことしか考えられないミャウとか、手伝ってもらったのにあっけなく「サヨナラ!」とか言ってダンディ達を置いていった挙句、彼女を寝取られて焼身自殺する魚とか。逆にダンディはいつもと比べると超然的というか、大物っぽいというか、なんとも落ち着いていた。こういう風にバランスを取っているのだろうか。

惑星ゴーインナカレーによって衛星にされた惑星カノジョーがその実、ゴーインナカレーに存在する水を引きずり回しているのは、名前も相まって男女の駆け引き的なものを感じた。水が何の比喩なのかまではいまいちピンと来なかったが。

そう、水。水といえばこの作画よ。飛沫、うねり、ボートにぶつかって割れ、スクリューに巻き込まれ押しやられる水の動き。なんといったらよいのか、良くもまあ描いたものだ。またロープを前ひれでのぼっていったり、ダンディとミャウがボーラのように飛んでいくのといい、本当に見ていて楽しい。転送ライトが電池切れで半分だけ地上に送ってしまい、半透明な船が二つできるというのは、昔どこかで見たような気がするが。

 

 

しかし終わってみれば初っ端の料理のシーンに出てくる焼き魚を巡り巡って結局食べるという、本当に回りくどい話だった。

思い出のマーニー

「お願い、許してくれるって言って!」

 

スタジオジブリ米林宏昌監督作品「思い出のマーニー」を見た。「借りぐらしのアリエッティ」は見ていないので、米林の作品はこれが初めてという事になる。

ジブリの鈴木プロデューサーが「男と女の話だとミヤさんがうるさいので女と女の話にしました」などと言っていたのでまたぞろ金儲けの権化がディズニーと手を組んで同性間の愛情でひと儲けしようとしているのかと――なにせ「アナ雪」、「マレフィセント」とそういった類の話が二本続いているので、まあ間違いなくそういう考えは持っているだろうから――なんとも嫌な予感を携えて行ったが、何の事はない。これはまったく「女と女の話」などではなかった。

なるほど確かに、形として見れば「女と女の話」だ。そうとしか言えないだろう。男なんてほとんど登場しないから。キャラクター達を並べれば女と女と女と女・・・と女ばっかりになってしまう。だが、この作品の肝である「マーニー」は完全にアンナの妄想であり、イマジナリー・フレンドであり、自己救済の手段である。この映画で描かれているのは要するに、アンナの独り相撲だ。この作品は「一人の女の話」と呼んだ方が良い。

アンナは明らかに嫌な人物である。人の親切を断る事も出来ず、身の内に鬱憤を溜め、しかもそれを留めておく事が出来ずに爆発させてしまう。このキャラクターの外見が信子と逆だったなら、絶対に好かれる事はないような、可愛いからまだ許されるような存在である。「可愛くないアンナ」はきっとそこら中にたくさんいるだろう。

そこに登場するのが「マーニー」だ。金髪碧眼、宮崎駿に「古い!」と言わしめた美少女の典型。そんな「マーニー」がアンナにとってとことん都合の良い存在であり、またその態度が明らかに男性性への働きかけを意識されていたのを見て、糞のようなアニメを見た時と同様の不快感を覚えた。何があっても主人公(=視聴者)を否定しない優しく美しい女性が存分に男性性を満たしてくれるようなアレだ。ついにジブリまで、このように視聴者の臆病な男性性を満たすだけの作品を作るようになってしまったのか、とも思った。どうか違ってくれと思いながら視聴し、その祈りは無事通じた。「マーニー」が男性性への働きかけを行っていたのはその妄想が元々「男と女の話」に基づいていたからであり、アンナは過去聞かされた物語を自らの妄想の中で追体験することで、自分が捨てられた子供、厄介ものであるという認識を取り除いたのだ。

 

この映画は自己救済の物語である。働きかけが相互するのでなく、自身の中で完結している。これはこれまでのジブリ作品にはなかった事だ。「男と女の話」と鈴木が述べたように、今までの作品は必ず「他人に変えられる」あるいは「他人を変える」物語だった。この変化を僕はあまり好ましく思えない。「人生で大切なのは、ただ生きたという事ではない。自分の人生を通じて、他の人々の人生をいかに変える事が出来たか、それが重要なのだ」とはネルソン・マンデラの言。他人と交わり、お互いに変化してこそではないのか。この作品はそうなっていない。主人公はマーニーに何の変化も与える事は出来ない。当然だ、「マーニー」は幻灯機に映し出された妄想であり、意識も人格も持ち合わせてはいないのだから。

あるいは、ここからもう一歩踏み出し、「妄想の中の人間」と「周囲の人間」の何が違うのかというところまで切り込んでいけば、面白いものになったかもしれない。もしくは時空が歪んで実際にマーニーとアンナが出会っていても良かっただろう。この映画は浅い。映画を見ていて常に次の展開が読めてしまうし、その想定からはみ出さない。それは監督の若さゆえだろうか。それとも。

 

だがまあ、不快感は理解によって取り除かれ、作品として「救済の物語」の体はなんとか整えられている。作画は流石のジブリだ。というわけで、思ったほど、悪くはなかった。米林の今後の仕事に期待する。

スペース☆ダンディ第十五話

「どういう意味?」

 

これまで程ぶっ飛んでいるわけでもぶん投げているわけでもない、整っているというか纏まっているというか、そんな回だった。

今まででも屈指の仲間思いなダンディだったのではないだろうか。今までは助かる見込みがある間は一応頑張るが、ダメだと判ったら即気持ちを切り替えて自らの生存に必死だったが、今回は死んでもなお助けようと頑張っていた。目の前に犯人と死体があったという特殊な状況がそうさせたのだろうか。

また、ループ構造にもなっているようだ。最初の方でダンディがミャウと言い争っていた「すげー最近聞いたシャカタク」というのが、時の川のポロロッカ中にウクレレ男に釣りあげられて聞いたウクレレの音色なのだろう。後これは誰が言っていたのだったか、「勘違いグランプリ」のエピソードでダンディの欠点として印象付け、表情の誤解という形でプラスとして回収するというのも面白い。時の川に入れた物が過去のものにすり替わって飛び出してくる演出も楽しい。

 

 

と、部分部分を見ればどれも面白いのだが、全体を通して考えると地味にも思える。これは多分今までのエピソードが強烈すぎたのだろう。ぼくはこういうダンディも好きだが、物足りないという気持ちも頷ける。ベクトルが違うので同じ物差しでは測れないのだが。