梟の城

群衆の中には、かれらをより群衆化させるために、ひとりはきまって精神の脆弱な者がいる。

 

司馬遼太郎「梟の城」を読んだ。

司馬遼太郎の小説はもう一行目が頭をブン殴られたかのような衝撃を以って、こちらをその時代に蹴落としてしまう。これも同様だ。ページなど物の数ではない。書物だというのに、その場に自分が立って、横で司馬遼が滔々と何が起こっているかを聞かせてくれているかのような、そんな錯覚にすら陥る。

しかし、読む分には素晴らしいこの特色も、感想を書くとなっては非常に難しい。この人は文中で話を進めると同時にそれへの感想、考察、推量にいたるまでの自らの考えを懇切丁寧に並べ、更には「余談だが」にも象徴される、まったく別領域からの情報をも山と積み重ねるので、僕程度の人間ではその圧倒的な情報量に濁流に飲み込まれた一枚の葉の如く、ただ飲み込まれ掻き乱され流されていくことしかできない。それはもうえも言われぬ心地よさだが、そのせいで感想はと自問すれば「おもしろかった」程度のものしか出てこないのがなんともはや。

思うに、司馬遼太郎は文章が上手すぎるのだ。小説でありながら、歴史に片足を突っ込んでしまうほどに。それ故に「司馬史観」が問題となる。彼は小説を書いているに他ならないのに。

言い訳はこの辺りでやめておこう。何とか、かろうじて、濁流を流され終えたわが身に滴る雫を読み解くなら、重蔵の考える「忍者」像と、僕の考える「人間」像に近しい点があるという事だ。彼は忍に本性などなく、ただ今日のみあり、立場状況によってどうとでもなる、雲のようなものだと述べていた。自分の中にいくつもの側面があり、状況に応じてそれらが難を逃れさせてくれるのだと。僕は数年前から、人間に芯などというものが本当にあるのだろうかと考えている。「仮面」などに喩えられる事も多いが、果たしてその仮面の下に、顔など存在しているのかと。僕はいくつになっても両親の前では子であり、師の前では弟子であり、後輩の前では先輩であり、先輩の前では後輩であろう。僕を僕たらしめているのはまさにこの多種多様なる関係性としての僕ではないのか。これらすべてに変化している、「本当の僕」などというものが存在しているとはとても思えない。そのような事を考えているので、この小説の忍者たちの余りにもあっさりとした心変わりにもひたすら、「ああこれは現代人にも広く見られるものだなあ」と感じていた。

ピンポン第六話

「それ、ない」

 

オリジナルは良い。松本大洋の「ピンポン」ではないが湯浅政明のピンポンとして良しと出来る。チャイナが母親や部員達と和気藹々と過ごすシーンは流石に過剰な気もしたし(特にカラオケ)ここでチャイナが救われてしまったら個人的超重要ポイントである「相互救済」が薄れてしまうとも思ったが、湯浅監督がそう思ってないのなら別にそれはそれで構わない。彼女とクリスマスにデートする風間で血管が浮き出たが妄想で終わって良かった。本当に良かった。

後、喫煙と飲酒。これは驚いた。なんだよ、喫煙描けるんじゃないか。ペコは堕ちるところまで堕ちるからこそ、その後の這い上がりがよく映える。そのための序盤のアゲが少なかったとも思うが、もう過ぎたことだ。案外アニメで初めて見た人間は十分ペコ強そうに見えてたやも知れん。

 

 

だが。

だがなんだあのBパートは。なんでカブとの会話とアクマとの会話をごたまぜにした? なんだあの気の抜けるようなペコの喋り方は? 「握りっ方から俺に教えてくれろ」はそうじゃねぇ、そうじゃねえんだよ。真剣じゃなきゃ駄目なんだよ。卓球を捨てたペコが帰ってくるような、アクマに吹っ飛ばされたときと同じ衝撃を反対向きに食らったような、それほどの出来事で覚醒しなきゃ駄目だろ。なんでスマイルの覚醒はあんなに格好良く描けたのにペコはこうなんだよ。もしかしてここからぶっ飛ぶような覚醒シーンがあるのか? あると期待していいのか? ドラゴン退治じゃなくチャイナ退治になった理由がちゃんとあるのか? 実は伏線でチャイナ戦で真の救済と覚醒がくるのか?

 

来ると信じて今後に期待!

ピンポン第五話

「旧態依然、危急存亡。じき冬が来る」

 

ペコが海に行くのとか川にラケット投げるのとかは、これ期待していいんですね? 後のアレやソレの為の布石だと思っていいんですね? 女引っ掛けるのは、ちょっとどうかなとも思ったけどペコはコミュニケーション能力高いし妥当ではある。兎にも角にも、喫煙という要素をちゃんと入れてくれたのはとても良かった。流石に口から煙を吐く描写まではできなかったようだが、昨今のアニメに蔓延る「未成年者喫煙」という描写へのタブー感は実に気に食わない。「スペース☆ダンディ」ではそこのところを逆に使って面白い描写にしてて感心したが。

アニメオリジナル展開は、チャイナに関しては本当に頭っからピンズドで良い。中国という国の熾烈さと、そこで暮らす市民の平凡さのギャップが良い味を出している。ドラゴンを世界最強にしたのも良かったと思うが、しかし海王の順位が変わらないというのはどうなのだ? あんな設備を満載しておいてインハイ二回戦で負けていいのか? ドラゴン方向のオリジナル要素、彼女とか学校内の血縁とかはまだ糸を巡らせている状態なのだろう、多分。特に心を掴むモノはないが、まさか大して意味もないまま終わるという事もあるまい。ただアクマに対するコーチの評をアクマスマイル戦の前にやっちゃったのには驚いた。海王という場所の変節を早めに出し、ドラゴンの異常性がコーチ由来ではない(つまりほかにいる)ことを明確に打ち出したかったのだろうか。まあそのための理事長だろうとは思っていたが。

アニメオリジナル展開に前半部分をほとんど丸々使った分、アクマに対する積み立てが足りないのではないかとも思ったが、木村昴の演技が凄く良かった。もしかしたら原作を読んでたから脳内補完出来ただけかも知れないが。

ピンポン第四話

「怠慢と妥協にまみれた卓球を続けたお前に何が出来る。……何が出来るよぉ!」

 

チャイナとドラゴンの試合はずっと爆笑してた。ありゃ凄い。ただ、見間違えたのかもしれないが一回玉がツーバウンドしなかったか? アクマとペコの試合は、何度も同じ映像を流す事でペコの苛立ちを表現しようとするのはわかるし本当に苛立ったからなんとも言いにくい。ただ、手抜きなのは確か。試合後アクマが話しかけながら近づいてくる所とか台詞の切れ目にも口動いてて残念だった。

あの茶髪の覆面は最初チャイナ関係かと思ったけど、どうやらアニメオリジナルで出てくると前々から言われてたドラゴンの許婚のようだ。もしかしたら真田は横恋慕してるのだろうか。ちょっと俗っぽいのは真田のキャラクター的にはありかも知れんが、「リア充」とかそういう類の単語をあんまりアニメで聞きたくないなぁ僕は。

後、海王を余りにもすごい場所にしすぎじゃないか? あんなに設備そろってる高校とかリアリティが無さ過ぎるし、それだけ揃えて負けたらそりゃ「ほかのやつ何やってるの」になってしまうのも当然だと思うし、そんな場所でミーティングさぼってマリカーする後輩とかドラゴンじゃなくても怒るだろ、と先の展開を思い出して不安になってしまう。この改変は今後が気になる所だ。ドラゴンの「勝利への追求」に掛ける異常性が薄まってしまわないようにがんばってほしい。

OPも少し変わってた。最終的にどうなるのだろう。

白ゆき姫殺人事件

「赤星。おれの言ってること、全部本当だと思うか?」

 

映画「白ゆき姫殺人事件」を見た。何時ぞや劇場で見たCMに心を惹かれて見に行ってみたが、当たりだった。

人間は適当な生き物で、自分を正当化し、納得できるような物語を作り上げる。そして、それは自覚的な場合も、無自覚的な場合もある。全編を通して、そんな人間達が描かれていた。

この映画はミステリーだと紹介されているが、トリックや真犯人や、多分そんな事はテーマじゃない。この映画の中では、殺人それ自体がマクガフィンだ。別に人殺しじゃなくてよかったし、更に言えば事件じゃなくても良かったのだと思う。この映画は、ひたすら普通の人を映している。取材内容やタレコミを逐一ツイートする赤星雄治は実に無神経で考えなしだ。だが、こんな人間は山ほどいる。その情報を元に大して裏取りもせずワイドショーを作るメディアはとても浅慮だが、これもどこにでもある光景だ。そして、それを見て笑い、嘲り、中傷する不特定多数。これは正に僕であり、あなたである。我々は眼にした情報を大して咀嚼もせず飲み込み、ピーピーとわめき散らす。それが間違っていたとわかって謝る人間はほとんどいないし、バツの悪そうな顔をする者さえ珍しい。ほとんどの人間は手のひらを返し、そ知らぬ顔で、今までとは反対側に立って同じ事を繰り返すのみだ。

日本の映像は軽薄だ。無論全てではないが、ドラマも、映画も、ニュース番組でさえ、上っ面だけまじめな皮を被って、中身はボロボロなものが沢山ある。これは作ってる連中だけ問題じゃない。見てる側だってそれを望んでいるのだ。薄っぺらく、軽く、浅く、そんなものを求めているのだ。この映画は、そこのところを巧く作品に落としこんでいる。アホがまじめぶるのは見ているだけでいらつく。だが、アホがまじめぶる映画は、その演技が真に迫れば迫るほど、良い。劇中に出てくるニュース番組は、おそらくテレビ会社のそっちの畑の人間が協力しているのだろう、恐ろしく真に迫っていて、これがテレビで流れたら本当のワイドショーだと勘違いしてしまうのではないかと思ってしまうほど出来が良かった。(つまり、それほどまじめを装った軽薄さを醸し出していたという意味だが)ツイッターで好き勝手につぶやく人間も、実にそれらしい。無軌道、無思慮、無責任。それは事件のインタビューを受けるさまざまな人間にしてもそうだ。自分に都合の良い物語。自分視点で綴られた歴史。そのどれが正しいかなど、問題ではないのだ。そして、この映画の凄いところは、「だから悪い」という安易な結論を出さない所だ。この映画は断罪しない。キャラクター達を実に滑稽に描いているが、しかし一方でそれはただ、彼らのありのままを映しているだけなのだ。

 

この映画に名探偵はいない。いるのはただ、「普通の日本人」だけだ。