天平の甍

「私の写したあの経典は日本の土を踏むと、自分で歩き出しますよ。私を棄ててどんどん方々へ歩いて行きますよ。多勢の僧侶があれを読み、あれを写し、あれを学ぶ。仏陀の心が、仏陀の教えが正しく弘まって行く。仏殿は建てられ、あらゆる行事は盛んになる。寺々の荘厳は様式を変え、供物の置き方一つも違ってくる」

 

井上靖「天平の甍」を読んだ。奈良時代、鑑真を日本に招いた留学僧の話である。誰もが知っているように、鑑真は何度も何度も日本に渡ろうとして失敗を続け、失明しながら六度目にしてようやく日本の土を踏むことが叶った。その物語なので、当然その幾度もの失敗が描かれる。それも井上靖の文体であるから、情緒豊かとはとても言い難い。あくまでも淡々とした書き口である。だが、それが何よりも心に来るのだ。鑑真が日本に持ち込もうとし、海に飲み込まれた将来品の数々。その目録がこの小説の中にも登場するが、その経典宝物の重要性を知らぬ素人でさえ想像するだけで身が震えるほど、大量の貴重な宝が黄海や東シナ海に沈んだのである。これが歴史小説の趣であろう。悲劇は起こる。これは歴史がそう記している以上、避けられるものではない。だが、彼らにとってはそれこそあずかり知らぬ事であり、成功を信じて歩み続けるしかないのだ。何度失敗しても渡日し仏教の発展を為さんとする鑑真、数十年ひたすら写経をし続けた業行、そして死の床に瀕してなお鑑真を日本に連れて行こうとした榮叡。彼らのその生き様はまさに狂信であり、僕は狂殉という言葉を思い描いた。文字通り、狂気に殉じているという事だ。彼らの努力があり、無数の失敗があり、そしていくつかの成功があったからこそ今があるのだ。鑑真が唐で死んでいれば唐招提寺は無かったし、彼とその弟子達がやっとの思いで持ち込んだ山ほどの経典や法具、そして何より膨大な仏教的知識がなければ日本の仏教そのものが大きく変わっていただろう。逆に、一度目の挑戦でたどり着いていたなら、これまたまったく違ったものになっていた事は想像に難くない。早々に鑑真が日本にやってきて仏教を受戒していたなら、行基が力を持つ事はなかったかもしれないし、渡日するまでに費やした十年とその経験が、鑑真の人格や心境に新たなる切り口を与えてない筈はないのだから。

誰だって失敗はしたくない。当然だ。現代人だってそうだし、当時の人間だって誰も失敗なぞしたくは無かったはずだ。だが失敗は起こる。残念ながら、失敗という事象を無くす事は不可能だ。勿論最初から成功を諦めるのは論外だが、失敗する可能性そのものを否定するのはもっとあり得ない。そして、その失敗のお陰で今があり未来がある事だって沢山あるのだ。

 

失敗は悲しい事だが、必ずしも悪い事ではない。一つの失敗のお陰でほかの成功が生み出されていることもある。それが誰の目にも明らかなら、苦労は無いのだけれど。

ピンポン第三話

「月本の事を、ずいぶん気にしておられますが、何故」「んーそこのあたり、少し複雑でな。なにしろ、才能とは求める人間にのみ与えられるものではないのでな」

 

2話の時点で大体わかってたことではあったが、バタフライジョー完全カットで僕の中の原作厨が死んだ。いや、もちろん今後違う形で登場し作品に絡ませてくる可能性はあるし、それが素晴らしい出来になる可能性もしっかりあるが、しかし、しかし! バタフライジョーに会いに来たと小泉に言うスマイルと、バタフライジョー=小泉をオババに確認するペコの対比、その言動から浮き出る四人のキャラクターの厚み、そしてなによりそのタイトルの秀逸さが僕の心には突き刺さっているのだ。あれをそのまま見たかったという思いはどうやったって隠せない。

ただしアニメとしてみるなら、一部に不釣合い感こそ存在するものの、マンガ的なコマ割りを効果的に使った演出など珍しい作り方のアニメとしても一見の価値がある。内容としても、ここまで敗者を利用して作品を組み立てるものもなかなかないし、大筋はそれこそ十年前に映画にもなったほどの王道スポ根だ。アニメで初めてピンポンを見た人も、映画から入った人も、中々文句の出る場所はないのではなかろうか。

だが、この空気感、特にキャラクターたちの会話の、アニメも映画も敵わない、圧倒的に現実的な、「間」。これがマンガには満載されているので、未読の方は読んでほしい。最近特装版が全二巻で販売されているらしいのでお求めやすくなっているので是非!

だが、ここまで書いておいて何だが、そんな事は半ばどうでも良くなるほどのものがある。3話にしてようやく公開されたOPの凄まじさだ。明らかに複数人の絵柄が入り混じっている、歪なOP。だが、このブレは松本大洋のマンガにも見受けられるのだ。ここからもまた製作陣のピンポンへの、そして松本大洋への「愛」を見出してしまうのは少し贔屓目にすぎるだろうか? 正直、「未完成品です!」といわれたら確かに、と首肯してしまうような映像なのだが、しかし僕はこれを完成品といわれてもなんの不満もないどころか諸手を挙げて大喜びだ。それほど、凄い。なんと言っていいのかわからないが、凄い。ココを見ればその異様なる出来栄えにも納得がいくかもしれない。特に、僕的にはこの人だ。大平晋也。

若い世代から見ると、大平さんというのは、スーパーアニメーターなわけですよ。(『フリクリックノイズ』貞本義行)

アニメーターなんぞほとんど知らない僕のような人間でさえ知っているほどの傑物である。この人の描くアニメーションは動きやカメラの動かし方が実に独特で、比類なく、まさにUniqueという言葉の似合う人だ。水の表現が特に素晴らしかったように記憶している。橋本晋二(晋治?)も強烈なアニメーターだし、もうミーハーな僕としてはもう兎にも角にもこのOPが生まれたという一点だけでピンポンのアニメ化は成功だったと言ってしまって良いのではないだろうかという気分になっている。

THE ACT OF KILLING

「共産主義者はそんなに残酷ではなかった。おれ達のほうがもっと残酷だった」

 

ジョシュア・オッペンハイマーの「アクト・オブ・キリング」を見た。1965年にインドネシアで行われた100万人規模の虐殺。その加害者たちによる、殺しの再演。

この作品はドキュメンタリーである。銀幕の向こうに立っているのは役者ではなく、全てが当事者だ。

この映画が世界に向かってたたきつけるのは、1000人殺したインドネシア人と視聴者に、何一つ違うところなどないのだという絶望的な事実だ。彼は特別な人間ではない。結果的に突出した人間にこそなったものの、ごく普通の、いやそれよりももっと親しみやすい、孫を愛し、友と酒を飲み交わすのを喜ぶ、気の良い爺さんだ。彼は異常者ではない。自らの行いを正当化しているが、その一方で負い目を感じ、悪夢にうなされる。自らの行為を「演じる」ことで客観性を獲得し、その正当性すらも半ば失う。僕はこの老人を責める気にはなれなかった。それは甘いのかもしれない。幼いのかもしれない。知らないだけなのかもしれない。その通りだろう。僕が共産主義者として引っ立てられて拷問されたなら。僕の友人が、家族が、殺されたなら。僕は彼を許す事が出来るだろうか。責めずに居れるだろうか。難しいだろう。憎しみに身を焦がし、恨みを抱いて一生を過ごすだろう。

だが、一方で。僕がその場にいたら。映画館の前でダフ屋を営み、大入りを連発するハリウッド映画のチケットで生計を立てている最中、共産主義者がアメリカ映画排斥運動をしたら。そいつらを打ち倒す絶好の口実と力を手に入れたら。僕は踏み止まれるだろうか。それもまた、難しいと考えざるを得ない。キリストは言った。罪を犯したことのない者だけがこの女に石を投げよと。僕は、僕たちは、この老人に石を投げる資格があるのか?

トロッコ問題というものがある。このまま進むと五人の作業員が轢かれて死ぬトロッコの分岐器の前にあなたが立っている。分岐器を起動すれば五人は助かるが、進路の変わったトロッコに轢かれて一人の男が死ぬ。あなたは分岐器を動かすか? という有名な心理実験だ。僕が母にこの問いを出した時、彼女は言った。「そういう究極の選択をしなくてはいけない状況になりたくない」と。当時僕は質問への回答になってないじゃんとかそういう事を思ったと記憶している。だが、この映画を見て母の言っている事が理解できた気がする。この状況になったら、どうする? 僕がアンワル・コンゴだったら、どうする?

考えたくもない。僕は殺すのも殺されるのも飢えるのもまっぴらごめんだ。

一方で、僕はこの映画を見たときと非常によく似た心境になった経験がある。フィリップ・ジンバルドの講演「普通の人がどうやって怪物や英雄に変貌するか」を見た時だ。この動画でジンバルドが言っているのは、まさにこの映画を通して語られる事と同じことだ。つまり、誰だって――あなただって僕だって、血も涙もない冷酷な虐殺者になりうるのだということだ。だが、とジンバルドは言う。逆に言えば誰だって英雄になれるのだ、と。

「アクト・オブ・キリング」は強烈だ。わかりやすい悪なんてどこにもいない。対立構造の正当性も誰も保障してくれない。自分自身の正しさすら揺らぐ。人によっては、これまでに培ってきた価値観をひっくり返されかねない。とんだセンス・オブ・ワンダーもあったものだ。これをいきなり見たら、相当堪えただろう。僕がある程度耐えられたのは、きっとフィリップ・ジンバルドのおかげだ。ほかの人にどれだけ効果があるかは保障しかねるが、もし「アクト・オブ・キリング」を見て後を引く何かがあるなら、彼の講演を聞いてみてほしい。少しは気が楽になるかもしれないから。数年前にニコニコ動画に投稿してくれた誰かさんには本当に感謝している。

ピンポン第二話

「布団ないでしょ、そこ」

 

フラストレーションがたまった回だった。アニメの枠が11話しかないせいだろうが、ぶっ飛ばして話を進め、一気に一巻分を終わらせてしまった。全体的に巻いて巻いて話を進めるせいで漫画の中にあった会話の間や合いの手が見る影もなく、ただ漫画にあったシーンと台詞を切り抜いて流すだけの残念ムービーになってしまっていたのだ。小泉先生の演技は鬼気迫るものがあったものの、「この星の一等賞になりたいの、俺は!」もアニメ化決定時に流れたPVほど鋭さがなかったし、ああ僕もPVと1話に踊らされて少々テンションをあげすぎたか、と肩を落としたものだった。

特に、バタフライジョー戦があっさり終わったのが悲しかった。僕は「教えてあげるよ、Mr.月本!! 君の甘さと、ハッ。バタフライジョーの悲劇を!!」というあのセリフがとても好きだったのだ。

 

だが、スマイルの覚醒シーンは素晴らしかった。ヒーローの訪れを待つスマイルに、しかし救い主は姿を見せない。追い詰められたスマイルに現れた変化とは……。このシーンは半ば白けながら見ていた僕の意識を一気に引き付けた。思えば、一話でももっとも印象深かったのはチャイナの独白だった。ピンポンにおける湯浅監督のオリジナル要素とは、相性が良いのかもしれない。

このシーンが存在したおかげで、僕はこの回も好きになれた。不完全なコピーを見せられるより、自己流に再構成したものの方がよほど良い。

どうか。完全な再現が無理なら、監督の解釈した新しいピンポンを作ってくれ。愛の有無、情熱の有無など他人には、そして本人にすらも判別出来るものではないが。やはり、出来上がってくるものには違いが存在すると信じているし、僕の中で優劣のつく作品というのはそこの有無を僕の何処か判然としない部分が嗅ぎ分けているのだと信じているから。

 

音と動きがつくだけなら脳内で良いのだ、僕は。アニメにするというのなら、それを上回る何かを望んでやまない。

ピンポン第一話

「次の駅?」「次の次」

 

待ちわびた。松本大洋原作「ピンポン」。毎週新規公開されるCMで存分に高められた期待、そのハードルはしっかり越えてくれた。一話のサブタイトルが「風の音がジャマをしている」だったから一体どんだけぶっ飛ばすのかと心配になったが、まったく無用だった。丁寧に演出してるし、何より松本大洋の絵が動いてるというのが凄く良い。

マンガ的なコマ割りをアニメとして見せる演出が気を惹いた。やり方が巧い。それでいて、アニメーションならではの凄いカメラの動かし方も良い。サブタイトルが表示されるシーンはコミックの時から凄いカッコいいシーンだったが、そのカッコよさがしっかりアニメでも再現できていた。スマイルの渾名がどういう経緯でつけられたかのネタ晴らしはちょっと勿体無い使い方されてたが、11話しか枠が無い事を考えれば仕方ない範囲だろう。

チャイナとペコの対決がまた凄い。BGM、良い様に遊ばれるペコ、そして過去を反芻し怒りをくみ上げるチャイナ。リレーCMの時から思ってたが、チャイナの声優が素晴らしい。感情の出し方が凄い。これはアクマやドラゴンにも大いに期待できる。

 

いやあ、今年の四月は本当に素晴らしい月だ。ピンポン the Animationを、最後まで楽しめる事を願っている。