スペース☆ダンディ第十三話

「そしてこれは、掃除機がコーヒーを飲みたくなるのに必要な二十三日間の物語である」

 

スペースダンディ最終話。愛だの恋だのは無駄。その通りだ。だが、無駄な事でも、やりたいと思った事に対してがんばれるのが、人間であり生命なのだ。そういう話だと僕は思った。報われぬ恋のためにがんばる男。その努力さえ意中の相手には届くことなく。ただ、その子の願いを叶えて黙って立ち去る。

ダンディじゃないか。この一クール十三話の中で、この話のQTが一番ダンディだった。しかも、最初は純真な少年なのだ。その少年が垣間見せるダンディズム。機械であり、AIであるQTだからこそ、このシーンのかっこよさはより一層増すのだろう。

今回も演出が凄い。画と音がガッチリと絡み合った、アニメーション的楽しさを一話から最終話まで貫き通してくれた事に本当に感謝する。素晴らしい。戦闘シーンは大画面で視聴したかった。

後、これ実際にどうなるかは知らないのだが、QTが吹っ飛ばされて一切バウンドせずにズンッと床に沈むのが重量感あって凄いよかった。

大塚明夫が眼帯をつけた機械(トースターだろうか。もしかしていさましいちびのトースターとも掛かっているのかもしれない。)に声を当てていた。最近の大塚はどうも苦手だったが、これはとても良かった。また、平野綾もゲスト出演していて嬉しかった。この人は言動で散々叩かれたが、声優としてはとても上手い。もっと仕事が来てしかるべき人だと思う。

 

最終話を迎えたが、スペースダンディは終わらない。七月からシーズン2がスタートする。本当に楽しみだ。シーズン1を塗り替える衝撃と、適当さと、そして感動を期待する。

スペース☆ダンディ第十二話

「一億ウーロンあったら何します? 僕もう働かないですね~。昼間っからビール飲んでゴロゴロ寝て暮らしますね」

 

どんなものにでも成り代わることができ、誰も本当の姿を見たことがないカメレオン星人。しかしその実、カメレオン星人本人すら本当の自分を失ってしまったのだった。

前回に引き続いてのSF的展開。とはいえ、「自分は本当に自分なのか?」という実に古典的な疑問であり、今までのスペースダンディと比べると些か大人しい印象。鏡に向かって「お前は誰だ?」というアレと、スワンプマンのない交ぜ。

そういう点よりも、今回はキャラクターがとても可愛らしかった。釣りに嵌ったQTが絵日記つけて専門用語バリバリで喋り出すのとか、ミャウの「怒られちった」とか。QTが最初右手でリール巻いてたのが途中から左手になってたのは何か意味があるんだろうか。後、会話のテンポがかなり向上されているように感じる。カメレオン星人が混じって四人になった後半は特に。

そう。キャラクターと小ネタが光る回だった。宇宙でラジカセ使ってカセットテープ聞いたり、「吉川じゃねぇ!」とか。前回の予告はこういう事だったのか。ダンディクイズとか。ダンディクイズで微妙に口角あげるQTがまた可愛い。

ダンディクイズでの問答を見る限り、カメレオン星人は人格ごと記憶をまるっとコピーしつつ、完全な同一化はしていないようだが、恐らく自分が取り込んだ他者の記憶と自分自身の記憶に明確な区別が出来ていないのかもしれない。9Sにそんな敵が居たような居なかったような。まあとにかく、自分が変身したカメレオン星人なのかそれとも変身された対象なのかがあやふやになっていくようだ。

 

しかし、偽者よりオリジナルの方が劣っているというのが真偽の決め手になる作品は数あれど、偽者を選ぼうとするのはちょっと見ないな。挙句「自分が二人居ても大して困らない」という結論にたどり着く作品は初めて見た。次で最終回とは名残惜しいが、分割2クールらしいのでまあ気長に待とう。

聲の形第三巻

“私”“声”“変”? 「うん・・・」

 

やっぱコイツの漫画の描き方おかしい(褒め言葉)。

植野が鞄から尻尾取り出したシーンでもう目が釘付けになってたのに、次のページ大写しでネコ耳装着とか、やばいよ。どういう発想だ。

昔仲良かった少女が仲違いして疎遠になってからもまだ少年の事が好きだった、って書くとすごいテンプレなのに、料理の仕方が違うのだろうか、ページをめくるたびに驚きがある。そうだな、むしろありふれた設定を使っているからこそ、違いが際立っているのだろう。

書いてて思ったが、これ構図としては「石田と西野」と「植野と石田」は同じなんだな。当人はまったく気づいてないけど。

昔一緒になって苛めてた仲間が、よりにもよって苛められっ子に奪われて泣いちゃう植野がとても可愛い。嫌いと明言されて、でも昔みたいにバカみたいな罵り合いが出来ただけで笑顔を取り戻してしまうのだ。いじらしすぎる。多分報われない。悲しい。

 

そして、三巻のトリを飾り、それまでの全てを吹っ飛ばした二十三話。

「うき」「ちゅき」を月だと認識するのは、まあ良い。ちょっと面白かったし、妥当な発想でもある。だが頭上の月を見て「ああ、キレイだね」は反則だろ。ずるい。ズレてるのに噛み合い過ぎている。しばらく笑いが止まらなかった。

SAVING MR.BANKS

「僕たちにはケルト人の魂がある。ここにあるものは全部幻だ」

 

「ウォルトディズニーの約束」を見た。映画「メリー・ポピンズ」の制作秘話。原作者P.L.トラヴァースとウォルト・ディズニーによる、許しの物語。

「メリー・ポピンズ」は僕の大好きな作品だ。これと「チキチキ・バンバン」、「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」、「サウンド・オブ・ミュージック」が子供の僕にミュージカルの楽しさを教えてくれた。その「メリー・ポピンズ」にまつわる話となれば、何を差し置いてでも見に行かざるを得ない。

なにより、その大きな魅力である歌やアニメーションに対して原作者が否定的だという構図は興味をそそる。ウォルト・ディズニーがこの一見してわかるほど気難しそうな女性をどう説得するのか、実にワクワクしながら見に行った。

そして、衝撃である。結局、ウォルト・ディズニーは彼女を説得できなかった。同じ経験をした自分を「信じてくれ」と言う事しか出来なかったのだ。

そこに、この映画の妙がある。

P.L.トラヴァースは最後まで、映画「メリー・ポピンズ」に諸手を挙げて賛成する事はない。それでも、彼女はきっとこの映画を気に入ったのだろう。完成披露での涙は、決して「アニメが酷かったから」だけじゃないはずだ。まあ本当にそうも思っていたかも知れないが。皮肉屋で、傲慢で、素直じゃない。実に古き英国人らしい人物像だ。

そしてまたこの邦題が憎い。ウォルト・ディズニーの約束。ウォルト・ディズニーは何を「約束」したのか? その一つの答えが原題「Saving Mr.Banks」なのだ。邦題を誰がつけたか知らないが、良いセンスをしている。原題もとても素晴らしいが、日本人には「バンクス氏」と言われてもイマイチピンとこないだろうし、意訳にも限度がある。一方で、ウォルト・ディズニーを知らない日本人はほとんどいない。邦題で足を運び、作品を見て、そして原題に立ち返る。これならば、きっと「メリー・ポピンズ」を知らない人にだって、両作品の素晴らしさが伝わる事だろう。

 

「メリー・ポピンズ」を見た事がある人は、是非見に行くべきだ。「メリー・ポピンズ」を見た事がない人は、まず「メリー・ポピンズ」を見てから、見に行ってほしい。

そして、いずれにしてもこの映画を見終わった後は「メリー・ポピンズ」が見たくなるのだ。僕は雨が上がったらビデオ屋さんに行く。

スペース☆ダンディ第十一話

「箱の中身は、見た者の記憶を操作する禁断のビデオテープであり、この後禁断のカセットテープや、禁断のレーザーディスク、禁断のフロッピーディスクが入り乱れ、銀河系全体を巻き込む大戦争に発展するのだが、その記録は残念ながら残されていない」

 

人が情報を紡ぎ出すのではなく、情報が人を操作する。人は自ら望んで本を書くのではなく、本に望まれて筆を取るのだ、というお話。本を書かずには生きていけない類の作家らしい脚本だ。

この話、時間軸にミスリードが存在しているような気がするのだが、うまくまとめる事が出来なかった。まあ大まかに書くと、箱の中を時間順に並び替えると「紙」→「VHS」→「空」という風に流れているのではなかろうかというような話だ。

アレテイラ館長がDr.ゲルを利用して得た「知ると死んでしまう知識」に決して到達できない事がダンディの力の秘密なのだろうか。あるいはまったく別のものなのだろうか。

ゴーゴル帝国の監視カメラの映像が凄い好きだ。あの絵柄で三十分やってくれないだろうか。やってくれないだろうな。

 

何故感想がここまで散文的で纏まりがないのか自分で考えてみたが、恐らく「サルでも分かる宇宙の秘密」ちゃんが池波正太郎ファンだったという衝撃が強すぎたのではなかろうか。火付盗賊とか急ぎ働きとか完全に鬼平犯科帳じゃないか。何故鬼平をチョイスしたんだ。脚本書いてるとき手元にあったのか? もちろんこの十一話という作品自体も一番最初に述べたようなSF要素は面白いし、演出も気に入ってるのだが、もうその事が気になって気になって、ほかの事に意識があまり向けられなかった。