煙霞

「男と女は騙しあいや。騙されて怒るようなやつは修行が足らん」

 

黒川博行「煙霞」を読んだ。どうやらミステリーだったらしい。確かに謎は存在しているし、その謎が解き明かされる様はミステリーの名に恥じないのだろうが、どうにもキャラクターの言動が目立ち、謎の方に意識が向かない。特にこの人の小説は土木建設の裏事情とか小切手の仕組み、今回だと学校法人で理事長がどう金をチョロまかすかというような、法律や監視からの逃れ方で謎の部分を構築しているため、内情もまったく知らず想像もつかない僕のような人間は何を言われても「ほほう、なるほど」ともっともらしく頷くしかなく、実際のところはさっぱり見当が付いていないのだ。そして、「その上でなお面白い」小説に出来るというのが、この小説家の本当に凄いところなのだとも思える。

小説家は取材をする。これは小説家に留まらず、何かを作ろうと思ったらその題材に関して歴史を学んだり当事者に話を聞いたりするのはある種当然のことで、その取材の過程で知った「思いもよらなかった面白いこと」を他人に伝えたくなるのも勿論当然の成り行きだと言えるだろう。だが、そこから「自分が面白いと思った」事を他人に面白く語って聞かせられる人間というのはあまり多くない。単なる知識の羅列で終わってしまったり、読み手を置いてきぼりにして一人で盛り上がり、分かる人間だけは同じようにテンションを上げているのだがこっちは冷めてしまうというような事は多々あるものだ。しかし、黒川博行の小説にそんなことは無い。

何故か。「キャラクターが面白すぎる」のだ。緊迫した状況でも妙に飄々とし、一方小さなことでグチグチ足踏みをする。「普通の人間」が決して無個性や没個性ではないように、奇妙な一面を持っているからこそ実に親しみやすく、そこら辺にいそうな人として頭の中に入ってくる。掛け合いの軽妙さで、事情が分からなくてもケラケラと笑って読んでいられる。謎こそがメインだ、という読み方をしてる人には怒られるかもしれないが、何を言われてもそこが面白いのだからしょうがない。また、実にしょうもない所で愚にもつかない冗談が、時に自分でも驚くような頭の悪い発言が口からこぼれてしまうというのは(これを僕は「脊髄言語」と呼んでいる)、同じ関西で生きている身として実に想像しやすい。そういう意味では、案外関西圏に住んでいない人からは結局本当のところでのこの面白さはわからないのではないか、とも思えてきたが、まあ僕の感じている面白さと同じ部分を同じように面白く感じていなくても、他の部分で面白さが見出せるならそれはやはり小説に「厚み」があるという事なのだろう。

そういえばこの「煙霞」、珍しい事にヒロインが出ずっぱりだ。僕が読んだのは多分10冊程度のものだが、半分は物語の最初とか途中にチラッと顔を覗かせて主人公にモチベーションを与えるニンジン役だったし、もう半分はまずヒロインが出てこない。別に悪口ではない。ニンジンと分かっていても悠紀ちゃんは可愛い。だがまあ、オッサンとオッサンが手を組んで金持ちのオッサン相手に悪巧みをかまして金をせしめてやる、というような、漫画家で言ったら福本伸行みたいな感じの話ばかりだったので、結構新鮮な気分だった。

今調べたらドラマをやっていたらしい。うーむ、あまり期待は出来ないが気になるところだ。レンタルに来たら1話見てみようか。

九つの、物語

「人は愚かだ。間違うこともある。それでも、一瞬一瞬、確かな幸せを得られるなら、間違うことを恐れるべきじゃない」

 

橋本紡「九つの、物語」を、ようやく、ようやく、読み終えた。おそらく発売から間もないころに貰ったもので、もう七年にもなるだろうか。今まで読まなかったのが不思議であり、一方で、今だからこそ読んで良かったのかも知れないとも思う。

とてもやわらかい。易しい文体で、優しい言葉で、読者の共感を呼び込むような、そんな小説だった。

橋本紡という小説家を想うとき、僕は絶対に置いておけない作品が二つある。「リバーズ・エンド」と「半分の月がのぼる空」だ。後者はアニメにもなったし、確か実写映画にもなったのではなかったか。それ以外にも三重の方言で書き直されたり、別の文庫から再販されたり。色々と、話題に事欠かない作品だったように記憶している。前者は、それとは対照的だった。メディアミックスと言われるようなものは全然でず、そういう意味でとてもおとなしい作品だった(内容はそんなことなかった)。片や恋愛モノ。片やSFモノ。扱われ方のまったく違ったこの二つの小説は、しかし同じ空気を漂わせていた。僕はどちらも大好きで、しかし、読んでいると悲しくなってくるので、そう何度も読み返しはしなかったと思う。だから、大まかな流れやいくつかのシーンは覚えていても、細部やどう終わったのかは良く思い出せない。果たして、最終巻までちゃんと読んだのかどうかもわからない。読み直せばよいと、そう思うだろう。だが僕はそれどころではないのだ。作品を頭に思い描くだけで、胸のどこかが背中に向かって沈み込んでいくような、そんな気分に覆われてしまう。作品に対するぼんやりとした記憶を思い出すだけで――あるいは作品を克明に思い出せないからこそ余計にそうなのかもしれない――辛いのだ。悲しいのだ。泣きたくなってしまうのだ。だから、もうしばらく、この二つの作品を読むことはないかもしれない。読みたいと思い、読みたくないと思う。大いなる矛盾だ。

話はさらに横へ飛ぶ。「あの時代は」、と。わずか数年間を、あえて大層な言葉で括ろう。あの時代は、面白くて、軽妙で、しかしその中にも悲しみや憂い、あるいは切なさみたいなものを湛えた物語が、ごく一部、若者向けの小説レーベルで流行していたように思う。「イリヤの空、UFOの夏」「ネガティブハッピー・チェーンソーエッジ」「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」「時空のクロス・ロード」……等等。名を挙げだせばキリがなく、また人によって分類も受け取り方も違うだろうから、ここまでにしておく。とにかく、まだ「ライトノベル」という言葉が今ほど浸透していなかった頃。読んでいる僕たちでさえ、そんな言葉を使っていなかった頃。「ライトノベル」の中で、笑いながら涙するような。心地よさの中で身を裂かれるような。そんな小説が流行った。楽しくて、可愛らしくて、少し猥雑で、でも、それだけじゃなかった。どこかに棘を持っていた。僕の心を突き刺して、離れない。存在を忘れさせない。読んでいると楽しくて、でも辛い。そんな小説が馬鹿みたいに沢山出て、読むたびに心を締め付けられることの出来た時代が、確かにあった。

この小説を読みながら、僕は泣いていた。作品の内容というよりも、この小説に漂う空気にやられた。あの時代の匂いがした。僕の大好きだったあの時代の。懐かしかった。ただ、なによりも、懐かしかった。ああ、こんな小説を書く人だった。そして、こんな小説を書く人が沢山いた。

 

そして僕は、こんな小説が大好きだった。

 

大いなる助走

「作家は自分の書いたことで世間から憎まれる。そして報復を受ける。これを覚悟していない作家は作家ではない」

 

筒井康隆の「大いなる助走」を読んだ。

恐ろしい小説だった。何故現実と地続きの舞台を描いておきながら平然と自身の短編小説に出てくるようなキャラクターを登場させられるのか。あまつさえそんな彼らを動かし、存分にその心情を語らせるなど正気の沙汰ではない。ページを適当に開けるだけでも見開き中に一字下げがひとつもない台詞が広がっており、そのあまりの勢いと一貫性にただひたすら目を剥くばかりだった。

僕は筒井康隆の小説をほとんど読んだことがない。短編集をいくつか程度のもので、長編で頭に浮かんでくるのはあの名高い「時をかける少女」、そしてあの悪名高い「虚航船団」ぐらいのものだ。その浅い読書量の中で、僕が最も好きなものが「虚航船団」である。あれは正に狂気であった。しかし一定の触れ幅に保たれていた。管理された狂気。常人はおろか狂人にも描けないあのえもいわれぬ空気。あの作品を読んで僕は筒井康隆という人物を「キチガイが好きで好きでたまらなくて頭がおかしくなってしまった人なんだろうなあ」と思ったのだった。

「大いなる助走」はある意味では僕の考えを補強してくれた。作者は頭がおかしい。一方で、この二つの作品を並べて見る事で僕の頭は新しい認識を抱いた。「虚航船団」は、筒井康隆が今まで脳みその中に蒐集してきた狂気の標本を分類し、大展覧会として発表したものである。対してこの「大いなる助走」はもっと生々しい。言うなら動物園だ。ここに描かれた狂気たちはどれも生き生きとその血をたぎらせ、檻のこちら側にいる読者に踊りかかってくる。危険な獣を隔てているはずの檻はなんとも頼りなく今にも獣たちが飛び出しそうになり、観客は悲鳴と共に飛び上がる。全てが抑えられぬ魂の発露のようであり、しかしその実、裏では猛獣使いが静かにその鞭をしならせているのだ。

しかし一方で、物語の終わりはなんとも物悲しい。これは祭りの終わりにやってくる寂寥感なのか、それとも自分の手で始末をつけた猛獣使いの悲哀なのか。僕はまだ、この感情をはかりきれずにいる。

百日紅~Miss HOKUSAI~

「お前のような了見のもんに、本物のもののけが見えてたまるかよ」

 

杉浦日向子のコミックをアニメーション映画化した原恵一監督の「百日紅」を見て来た。

絵は良いが話が悪い。音は良いがセリフが悪い。シーンシーン単体ではこれは、と思うところも確かにある。だが、通して見ていて苦痛。そんな映画だった。もう本当に声優がひどい。音響だか演技指導だかは何をしていたのか。聞いていて違和感が無かったのは男娼と、まけても善次郎ぐらいのものだった。

がっかりである。僕は二週間ほど前に原作コミックを本屋で発見し、購入してそのまま読んだ。大変楽しく読んだのである。当然、この映画にも胸を膨らませ、期待を大にして劇場まで足を運んだ。そのわくわくは最初の十分ほどでしぼみ、途中からは帰りたいとすら思った。それほどに期待はずれの、「つまらない」映画であった。

まずエピソードのチョイスがひどい。何故真っ先に龍の話を持って来たのか。あのエピソードは北斎とお栄の関係や、お栄の力量をある程度見ている人間に伝えてからやるべきものだ。ただあれを見せられたんじゃなんの面白みも無いわ。ただ単にアホな娘が絵を台無しにしただけのことになってしまう。いや勿論それは間違っていないし、事実そういう話なのだが、しかしそれだけではない。それだけで終わらせないだけの面白みがある話を、ただ間抜けなものに仕立て上げている。がっかりだ。

次に、エピソードからエピソードへの転換がひどい。ただの場面転換なのか、次のエピソードに移ったのかがさっぱりわからん。二つの転換に何の違いも無いからだ。それでいて季節は動くわ着ている服は変わるわ、見ていて混乱する事甚だしい。しかも複数のエピソードを切ったり貼ったりして無理矢理な繋ぎ方をしやがる。どういう基準でエピソードを選び出したのか問い詰めたいものだ。

 

この映画は全てがひどい、というものではない。エレキギター(だろうか。楽器には疎いのでこれと断定する事はできないが)とともに江戸を映す開幕は非常に良かったし、橋をくぐるシーンや黒雲の中にうごめく龍、ススキ野原を駆けていく両手など、絵や動きは見ていて面白い。見所となるシーンはいくつもある。だが、それと糞のような脚本だかセリフだかが同居する。声優陣も聞いてて違和感を覚える。話もわけのわからん切り方繋ぎ方選び方をする。悪い点が多すぎた。

なので、僕と声やキャラクター造形の好みが異なるという人は楽しめるかもしれない。その点に関しては保証はしない。

papusza

「何を書いてるの?」「詩だよ」「詩って?」「昨日思ったことを、明日思い出すためのものさ」

 

僕はこの映画を、どう見れば良かったのだろう。

この映画はジプシーでありながら詩を作り、ポーランド史に名を刻んだ女性、ブロニスワヴァ・ヴァイスに関するものだ。

僕は彼女を知らない。その詩も知らないし、詩という媒体自体をほとんど知らない。ポーランドにおけるジプシーが「どのようなものであったか」も知らない。そんな僕から見たこの映画は、ただ悲しいだけの映画だった。

勿論、楽しいシーンはあった。ジプシーたちの彼ららしい生活や、留置所に捕らえられても、中で明るく音楽をかなでる様などは見ていて楽しかった。

だが、この映画が映すのはジプシーがジプシーでいられなくなってしまう時代だ。無理解か、あるいは非寛容ゆえに、彼らはジプシーとしての生活を奪われた。

しかし一方で、当のジプシーたちもまた、彼らの持つ無理解か、あるいは非寛容さを以って、パプーシャを攻撃した。

2年間ジプシーと共に暮らし、ジプシーに関する本を出したイェジ。彼もまた、無理解か、あるいは非寛容によって、ジプシーとパプーシャを傷つけた。

だが。無理解や非寛容は、それすなわち「価値観」だ。何かを良しとする基準こそが、ほかの何かを傷つける。悲しいことだが、それは悪いことか? 僕はそう思えない。全てを理解し、全てを許すこと。何物も傷つけないというその状況は、対極であるはずのあらゆる無理解、徹底的な非寛容と何も変わらないのだ。問題は程度であり、そして程度が問題である限り、この問題は解決しない。

イェジに手を振るパプーシャに、監督がどんな思いを込めたのか。そんな事すらも僕は読み取れず、ただ眺めているうちに、映画は終わってしまった。

この映画は確かに、悲劇を映している。だが僕はこの映画を、いったいどう扱ったらよいのかわからない。この映画はただの記録なのではないかとすら考えてしまう。僕がポーランド人だったなら、思うところがあったかもしれない。僕がジプシーだったなら、思うところがあったかもしれない。僕が詩人だったなら、思うところがあったかもしれない。

 

だが、僕は何れでもなく。見ていてただ悲しいとしか思えなかった。