WHIPLASH

「英語でもっとも危険な二単語は……GOOD JOBだ」

 

「セッション」を見た。純朴な青年が、自身のエゴと妄執を自覚し、ドラマーとして目覚める様を、見事なジャズ音楽と共に描いた映画。

まるで歌舞伎の拍子木のようなドラムから幕が開き、瞬く間に僕は映画に引き込まれた。あのような演奏をなんと呼ぶのだろう。ジャズ――特にドラム――が特徴的に使われていたといえば「バードマン」もそうだった。アメリカを象徴するものなのだろうか。

話としては、そこまで特異なものはない。鬼のように厳しい教師と、それに才能を見出された若者。百万とある類型だ。

だが、キャラクターが異質だ。鬼のように厳しい教師は心のかなり奥の方まで鬼で、「やさしい内面」など作中ではまったく見せない。一方若者も、「ドラムの邪魔だから」と彼女に別れを迫ったり、友人に「あのクソ赤毛には譲らない!」と罵ったり、かなりとんでもない。鬼教師に影響されたと言うのは間違ってないだろうが、正確ではないように思える。あれは自身がそうであると「気づいた」にすぎない。どこまでもお似合いの師弟だった。

よくある話に異質なキャラクターが合わさると、どうなるか。展開がどんどん予想外の方向に行くのだ。「ベタ」が「ベタ」に繋がらない。「お、こんな出来事が起こるのか。じゃあこうなるかな?」というこちらの心構えが瞬く間に否定される。作中の周囲の人間と同じように、見ている人間もまた二人のエゴに引きずられるのだ。その、一歩間違えば不快にしかならないだろう体験はしかし、そのエゴが結果的に生み出す素晴らしい音楽の力で僕の中で許容された。

最後のコンサートシーンなど極めつけだ。どこまでも驚かされ、しかし考えてみれば完璧に、それまでに撒かれたタネを回収しているのだ。「僕のパートだ!」「一年間、ひたすら練習した」。素晴らしい。見事な話の作りだった。

The Social Network

「俺がCEOだ、ボケ」

 

Facebook創設者マーク・ザッカーバーグに関する映画。ノンフィクション作品と同時並列で作られたのだという。

始まってしばらくすると、複数の時間軸をカメラが移動するようになる。今まさに成功への道を歩く学生と、Facebookが大当たりし、今までの関係が壊れ、訴訟を抱えるCEO。「決裂」と「サクセス」とが並列して描かれているのに、その二線がいつまで立っても結びつかない。見ていてイライラさせられる映画だった。例えばカンバーバッチが主演した「ホーキング」でも、この方法は使われていた。あの場合は、今回で言う「決裂」にあたるシーンの意味をかなりボカしており、「この何度も挟まれるシーンはなんなのだろう?」という興味によって、多層的に映画に人を引き込んでいた。しかしこの作品は違う。「決裂」のシーンは見た瞬間に「サクセスストーリーの途中で何か、関係を終わらせる致命的な事が起こるんだろうな」と思わせられる。事実そう思ったし、映画の内容もそうだった。つまり、先の展開を教えてしまっている。この演出が有用なのは「ふたつの線がつながった後」の話に重点を置きたい時だ。先の展開をあらかじめ教える事で、いざその展開が発生した時の違和感や疑問を減らし、スムーズに先の展開に接続するのだ。しかし、この映画はそうではない。先の展開などないのだ。二つの線は断続的に現れ、いつになっても繋がらない。これは問題だ。演出上もう描いている事を、映像上描けていないので先の展開が訪れない。

そうだ。僕がイライラさせられたのは、この映画がただひたすら「待たされる映画」だったからなのかもしれない。

 

また、僕がFacebook嫌いというのもこの映画を高評価するためには不適当だったようだ。このゴタゴタが事実かどうかは誰にもわからない事だが、もし嘘だったとして今までの僕に何の変わりもなく、本当だったとしたら尚更あのサイトにかかわる気にはなれない。やはり僕はFacebookが嫌いだ。ただでさえ人間関係というのは面倒ごとが多いのだ。これは僕のようなちゃらんぽらんな人間をしてそうなのだ。インターネットでまで僕をソレに縛り付けるのは不愉快でしかない。そんな事をいいつつtwitterを使いblogを更新するのは大いなる矛盾と言えなくもないが、重要なのは「程度」だ。僕が誰であり、何処に住み、どんな経歴で、何をしているのか。情報には段階がある。僕の方からそれを主観的自由度の中で選択し、インターネットに繋ぐのと、はなっから丸ごと繋がっているのではまったく違う。他の誰にとって同じでも、僕にとっては違う。まあ何らかの理由や意識の変化で使い出す日が来るかもしれないが、その時は「何かが変わったのだ」と考えていただきたい。

Birdman: Or (The Unexpected Virtue of Ignorance)

「どうしてわたしにはプライドがないの!」「女優だもの」

 

マイケル・キートン主演「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」を見た。

素晴らしい。最高に面白い映画だった。作中で描かれるのは夢だ。作品全体に横たわる不穏な空気。今にも取り返しのつかない何かが起こってしまうのではないかという、漠然とした恐怖。空を飛び劇場へと帰ってくるシーンなど、まさにその象徴だった。明らかに異質。完璧に異常。だが、当人にとってはそうでない。リーガン・トムソンが見ている夢を、傍から除きこむような気分を味わった。これはシュールリアリズムそのものではないか。「意味不明」「不条理」の代名詞として濫用され、ぼやけてしまった単語としての「シュール」ではない。原義的なシュールリアリズム。僕は途中からただひたすら「はやく終わってくれ」と祈った。作品のつまらなさ故ではない。映像の薄皮一枚下に漂う、言語未満の感情を刺激する何か。もはや「空気」と呼ぶしかないようなその何かに、圧倒され続けていたからだ。

そして同時に、この映画はどこまでも演劇である。舞台である。どんな状況でもどこか、見ている人間を意識している、ことを伝えてくる。映画なら絶対にいれないようなところで笑いどころを持ってくる。「映画でしか出来ない」「芝居」。素晴らしい。片や「レ・ミゼラブル」がアカデミー賞作品賞ノミネートにとどまり、片やこの作品が受賞した理由もまた、ここではないだろうか? 「レ・ミゼラブル」は確かにすばらしい作品だった。こだわり抜かれた、美しいミュージカルだった。だが、それだけだった。映画でなかった。僕は映画を見に来ているのだ。小説は「小説にしか書けないもの」を。漫画は「漫画でしか描けないもの」を。そして映画には「映画でしか撮れないもの」を映し出してもらわなければ。そういう意味でも、この映画は完璧だった。

そんな「映画性」とでも言うべきものを生んでいるのは、異常な(良い意味で)カメラワークだ。長回し、ワンショットの中で行われる時間経過には本当に驚かされた。素晴らしい演出だ。

と、絶賛するに相応しい映画だが、一方で不満もある。批評家が劇中劇「愛について語るときに我々が語ること」に対して書いた批評と僕が「バードマン」を見ながら感じていた想いが余りにも重なっている事だ。 もしあの批評と僕の感想がまったく向きの異なるものであれば、素直に劇中劇への批評という映画のワンシーンとして見る事が出来ただろう。だが、そうではなかった。「超現実的」スーパーリアリズムという言葉。あの一言が、余りにも「バードマン」に対して客観的すぎた。それは僕の言葉だろう! 自分で言う事じゃなく!

だが、多少足が生えていようが蛇は蛇だ。魅力が損なわれるほどの事ではない。見事な映画だった。今年見た映画の中で、現時点トップと言って良い。

 

ラストシーンについても触れておこう。娘は窓の向こうに、一体何を見たのか。僕の答えは「バードマン」だ。この映画はリーガン・トムソンの夢だ。彼が望むものは全て手に入る。なら彼が「空を飛びたい」と願って、飛べないわけがない。リーガン・トムソンが鼻を吹き飛ばし、批評家からの絶賛を得、心身共にバードマンの影を捨てる事で、ようやく。バードマンは復活を果たしたのだ。

The Imitation Game

「お互いにとって“最高の戦争”になるぞ」

 

チューリング・テストの発案者にして、当時世界最高の暗号と謳われたエニグマを解読した天才数学者、アラン・チューリング。彼の半生を綴った映画と言って、間違いではないだろう。

まずやはりなんといっても主演のカンバーバッチだ。見事に役に嵌っている。ただ、彼を見ていてひとつ思う。彼の芝居が高い親和性を発揮しているのは、「天才」とよりもただひたすらに「神経質な男」なのではないだろうか。無論、「天才」役が多いのは知っている。こないだはホーキング役で主役をやった映画も見たが、あれも良かった。チックやどもりに始まる、その所作。アイコンとして強くアピールされるものもあれば、隠し味的にひっそりと忍ばされたものもあるだろう。だが、「裏切りのサーカス」で見せた演技は「天才」とは違う。有能だが、異質ではない。あくまでも「普通」の範疇であり、そしてやはり神経質だった。彼自身がそういう性質を持っているのかどうかは知らないが、僕の見た彼の芝居は本当に「繊細な男」ばかりで、どれも上手い。「SHERLOCK」では繊細であるがゆえに「繊細であるという芝居を打つ」という、非常にまどろっこしい演技までしていた。これは彼自身が、言ってみればある種の「英国人らしさ」(100%偏見であることを明記しておく)を武器にしているのだろうか。それとも、制作陣に求められているのだろうか。ともかく、嵌っているのだが、まったく違う役をしている様も見てみたいな、と思った。

さて、映画の内容について。最近実話を基にした映画が多い。「グレース・オブ・モナコ」を見た記憶はまだ新しいし、「英国王のスピーチ」も最近の映画だったと記憶している。「アルゴ」もそうだな。今あげたいくつかの映画はどれもとても面白いものだが(特にアルゴはすごかった)、やはりサスペンス的盛り上がりに欠ける。実話を元にしているので、見ている人間からは映画の場面は常に「過去」とリンクしてしまう。ある意味で結末がわかっているのだ。しかし、作品の構造上は「今」であり、キャラクターにとってはどうなるかわからない。ここで、見ている側、僕としてはどうしてもしっかりとキャラクターに感情移入出来ることなく最大の山場を迎えてしまい、「ああ、良かったね」と、楽しみながらも一歩引いたような視点に立たざるをえなくなってしまうのだ。

その点で、この映画は上手かった。映画の始まりが既に1950年だ。WW2が終わって5年後のアラン・チューリングから物語が始まる。まるで監督に「さあ、視聴者の皆さん。CMやポスターで彼がどんな人物か知っているでしょう? そんな彼が、薄汚れた屋敷で部屋の掃除をしています。何故そんな事になったか、気になりますよね?」と聞かれているようなものだ。もちろん気になる。そして、他ならぬアランの口から、当時の出来事が語られるのだ。”pay attention” 注意を払え。一言も聞き漏らすな。「何が起こったか、話してやる」

実に上手い。こうすることで、映画と僕は「語り部」と「聞き手」にという原始的な関係に変化した。そしてこの描き方が示すもの。それはこの映画が「どういう映画なのか」ということだ。これは、「天才数学者が如何にエニグマを解読するか」という映画ではないのだ。「アラン・チューリングがどんな人だったか、知ってください」という映画なのだ。

 

無論、映画は映画だ。史実もあれば嘘もあり、勘違いや読み間違いもあるだろう。だがそれでも、この映画には「アラン・チューリング」がいた。彼がどんな人だったか。その片鱗でも、知れてよかったと、僕は思う。

SNATCH

「あいつに弾丸をぶち込んでこいよトミー。……銃を投げたほうが効くかもな」「オレには撃てないと言うのか?」「“撃てない”と言おうが言うまいが撃てないだろ」

 

ジェイソン・ステイサム主演「スナッチ」を見た。友達に「バッカーノが好きなら絶対楽しめるから見ろ」と薦められ、ドンピシャリ。めちゃくちゃ楽しい映画だった。

86カラット(だか84カラットだか。何故か途中で縮んだ)のダイアモンドを巡る……ヤクザもんというか、悪人というか、うぅむ、言葉にすると実に陳腐になってしまうが、とにかく真っ当ではない連中の群像劇である。アホくさく、小気味よく、そして適度に刺激的な会話は実に僕の好みにマッチしていた。

演出が素晴らしい。カメラをくるくる回転させながら強盗達の顔をかわるがわる見せていくあのシーンだけでもう引き込まれた。物が登場人物たちの間を流れていくOPは見ていて楽しいだけでなく、見事にこの映画自体を現していたし、またあの短い時間でしっかりと人物たちの特徴を描いている。そんな中でも僕が好きな演出は、兎狩りと逃がし屋タイロンの追跡を合致させたシーンだ。二匹の犬に追われる獲物。無理なく、同じ構図を両立している。そして何より、片方の展開がもう片方の展開を予想させる。本当に素晴らしい演出だった。

シナリオとしては若干えげつない所もあるが、そういうシーンをちょくちょく挟みながらも全体としてはコメディーに仕上げている。登場人物の多さに見始めは面食らい、多少の混乱を生むかもしれない――ちなみに僕はフランキー(ベニチオ・デル・トロ)の変装した顔がブラッド・ピッドにしか見えず、そのせいで多少以上の混乱が生まれた――が、皆個性的なので、直ぐに見分けられるようになるはずだ。