EXODUS GOD AND KING

“Who are you?” “I am.”

 

リドリー・スコット監督の「エクソダス 神と王」を見た。旧約聖書に記された出エジプト記。紅海を割り、イスラエルの民を約束の地へと連れて行った預言者モーゼの物語。

 

この映画は、余りにも「今」に酷似している。

映画の中でモーゼはヘブライ人に説く。「数が多ければ、軍を一つにまとめ、敵の心臓を食らえ」「数が少なければ脇から相手の補給路を叩き、血液を止めろ」これにヘブライ人が問う。「補給路とは兵糧の事か」モーゼの答えは、「財産。食糧。そして安全だ」相手の民を動かすことで為政者を止める。まさに、ここ50年間、世界各地で発生している戦争だ。大国は常に圧倒的火力で以って敵の心臓を叩こうとするが、ゲリラの心臓は未だに見つからない。そして、いつしか戦争継続が困難な状況が、大国内部で生まれる。

「戦争は変わった」。正しく、戦争は変化した。軍事力の増強と経済的結びつきが行きすぎ、もはや大国同士では武器を持ち出す事が出来ない。今の流行りは「テロとの戦い」という奴だ。この映画で描かれるのは、まさにこれである。圧倒的優位に立ち、モーゼという心臓を狙うエジプトと、奴隷としてひたすらにゲリラ作戦、テロ行為を繰り返し、血液を止めようとするヘブライ。その争いは苛烈を極めたが、複数の天災に見舞われたエジプトが遂に折れる。テロリストが勝利を収めたのである。

結果、どうなったか。彼らはエジプトを支配したか? エジプト人を奴隷にしたか?

否。ヘブライ人が得たのは自由。約束の地に向かう事が出来るようになっただけだ。「退く余地が出来た」というにすぎない。逆にエジプトが勝利を収めていたなら、何を得ただろうか? 答えは、「ヘブライ人からの攻撃で失われていた安全」だ。これなら出て行ってもらっても得られる。しかも、四十万の奴隷を失う事に変わりは無い。

戦争は変わった。Exactly。戦争は変わったのだ。「テロとの戦い」は土地の奪い合いではない。大国とテロリストでは、勝利や敗北の定義も、その際に得るもの失うものも、何もかもが違う。

僕はあらゆるテロ行為を肯定しない。だが、テロ行為を行う人間を否定出来ない。碌な理由もなく武器を使い、大した意味もなく他者を殺める。そんな事をするのは得てして余裕のある者だ。余裕のない者が武器を持つ。余裕のない者が他者を殺す。それは、もはや彼らが「限界」に辿りついたと言う事だ。それ以上退く余地が、何処にも残されていないと言う事だ。

強い者と弱い者が戦えば、前者が勝つ。しかし、退く余地のある者と退く余地のない者が戦えば、後者が勝つだろう。何故か。この闘いの結末は前者が退くか、後者が滅びるしかなく、世界各地の先進国がその身を以って証明してくれているように、敵を滅ぼすのは困難を極めるからだ。

「テロには屈しない」9・11からこちら、この言葉を聞かない年はない。だが、この考え方は危うい。大抵のテロリストには、とっくに退く余地なんてない。あれば自爆テロなどしないだろう。だから、僕は主張する。「強者が退くべきだ」と。屈服しろとは言わないが、譲歩した方が良い。相手が弱者であるうちは押せば押すだけ旨みがあってよかろうが、それがいつ退く余地のない者になるかはわからない。そんな連中を相手に泥沼の戦いをするのが為政者にとってどのぐらい魅力的なのか知ったこっちゃないが、そんなもんに巻き込まれるのは御免蒙る。僕は殺す者にも殺される者にも、絶対になりたくない。

 

 

しかし、3000年の長きに渡り虐げられてきたイスラエルが、立場が変わればあっさりパレスチナ人に同じことをやるのだから人間と言う生き物は業が深いものだ。

INTERSTELLAR

「TARS、お前の正直度は?」「90%。完璧な正直さは時に心ある生き物を傷つける」

 

クリストファー・ノーラン監督作品「インターステラー」を見た。

まずぶっ放しておこう。今年見た最も面白い映画だ。12月がまるまる残っているからめったなことは言えないが、しかし、言ってしまいたい。「今年一番面白い映画だ」と言ってしまいたい。ああ言ってしまった。

宇宙空間での演出――徹底した「無音の表現」や、星を配置する事によって人の遠近感を狂わせる撮り方――に海よりも深い「2001年宇宙の旅」へのリスペクトを感じた。「2001年」が好きなら、是が非でも、見るべきだろう。勿論劇場で!

美しい映像と、視聴者に噛み付かんばかりの音響。公開直後アメリカでは「音が大きすぎる」と苦情が続出したらしいが、これでいいのだ。この音の洪水が、僕を物語の中に飲み込んでくれた。

ストーリーは単純で、展開はかなり早い段階で透けて見える。だが、そんなことは何の問題にもならない。分かるからこそ、震える。読めるからこそ、奮える。予定調和の美しさがあり、見事に纏め上げるが故の感動がある。まさに王道。素晴らしきテンプレート。ここまで奇を衒わず、ただひたすらに面白い作品は中々無い。

TARSやCASEたち、人工知能ロボットも素晴らしい。人よりも更にユーモラスに描くことでAIの非人間性を強調するのはよくある手だが、これがまた良い味を出していて、言わさないのだ。AI達の発言はとても自然な不自然さを持っていたと言える。その構造(というべきか、機構というべきか?)がまた非常にユニークで、最初に見たときはなんじゃこのモノリスもどきは、と思ったが、歩行時の動きを見ているとスターウォーズのR2-D2を思い出した。そしてなにより、作中でのあの多彩な変化よ! 元の形から逸脱しすぎず、しかしこちらの想像を超えていく、絶妙なバランスを持った変形だった。最高だ。

僕はこの作品を「愛への賛美」だと読んだ。愛は正しかった。親と子の愛。男と女の愛。個と種の愛。自分自身への愛。どれも、かけがえの無い、大切なものだと、この作品は僕に投げかけてくる。「悪は人から生ずるものか?」というセリフがあったが、少なくとも愛に対しては、いやそんなことはないぞ、と。倫理的、法律的、常識的、ほかにもさまざまな考えから行いには正悪がつけられるが、それでも。「愛する事は悪いことじゃない」と、この作品は言っている。

また、この作品が僕の中で特別な位置に立ったのは、あらゆる「巻き込まれ型作品」が受け手に与えてしまう「何故彼(彼女)が主人公なのか?」という疑問に、完膚なきまでに答えを提示してくれたからだろう。こんなことは中々無い経験だった。

確かに、粗が無いかと言われればそんな事はない。兄妹の和解があまりにも唐突だし、あの海の星での出来事には心の中で「なんでだよ!」と突っ込みを入れた。しかし、そんなもんを吹き飛ばすぐらい面白かったのだ。そう思わされてしまったのだから、俺の勝ちなのだ。そして、つくった人たちの勝ちなのだ。作品なんてもんは土台、楽しんだものが勝つのだから。

 

2時間49分という上映時間はあなたに二の足を踏ませるかも知れないが、あと一歩、たったの半歩でも踏み込めば、そこには広大な宇宙が広がっている。そしてその片隅で人類を救った一組の親娘の、その愛が観測できるだろう。

THE TRUMAN SHOW

「ココアを飲まない? ニカラグア産のココアよ。人工甘味料ナシ」「何をしゃべってる? 誰に?」「このココア私は大好き」「なぜそんな意味のない話をするんだ?」

 

ジム・キャリー主演「トゥルーマン・ショー」を見た。初めてYoutubeでお金を使ってしまった。雨が降っていて外に出る気がしなかったからだが、驚いたのはその値段設定だ。48時間で300円。利便性の代償にしても、店舗に比べて高すぎる。次からはちゃんとレンタルビデオ屋で借りよう。

とは言え、この作品の面白さにはケチのつけようがない。僕は大満足だ。全編を通して、古ぼけて、典型的で、そして過剰なまでに芝居臭い劇中劇が繰り広げられる。世界でただ一人何も知らない男トゥルーマンへの、驚くほど大胆なメッセージ“IT COULD HAPPEN TO YOU!”(災難はあなたを狙っています)を掲げる旅行会社という矛盾しきった存在を見た時には、そのあまりの荒唐無稽さにTRPG「パラノイア」を連想した。番組制作者のクリフトフはトゥルーマン一人のために存在するハーバー島をユートピアと呼んだ。しかし、誰かのユートピアはいつだって別の誰かのディストピアだ。その場所でただ一人「俳優」でないトゥルーマンにとって、周囲すべての人間がひとつの意思を持って動き、誰もが自らを偽っているという状況はまさしくディストピアと言えるだろう。

そんな彼が一人の女性をきっかけに、最終的に自らを保護/生育/抑圧/管理/支配する存在の用意した「楽園」から抜け出すという事がエデンを追放されたアダムと一致しているということぐらい、いくら西洋文化圏からかけ離れた自分であっても気がつく。海から殻を破って外に出るというのは、孵化や出産をも暗示しているのかもしれない。考えただけでもおぞましく、しかし温く守られていた卵からようやく生まれてきたトゥルーマンに今後いったいどんな出来事が待っているのか。想像するだけでも背筋を冷たいものが走る。時にはかの楽園での暮らしを思い出し、帰りたいとすら思ってしまうかもしれない。クリフトフとて、トゥルーマンを愛していたのに違いはない。彼なりに、最高の条件を作っていたのだろう。それでも、子はいつか親離れをするものだ。誰が嫌がろうとも。

 

最後のセリフは、この作品中最強の切れ味を持っていた。「番組表はどこだ?」時間にして3秒のこのセリフはトゥルーマンの必死の航海、真実との対面、その選択をリアルタイムで目撃し、歓喜の声をあげる観客たちの喜びように同調して浮かれ気分になった僕にとって、バケツ一杯の氷水をお見舞いされたようなものだった。僕にはこう感じられたのだ。「これがお前だ」と。人の一生分の葛藤や苦悩と、そこから導き出される選択。それさえもエンターテイメントとして消費し、それが終わればすぐさま新しいエサを求めてさ迷い歩く、満ちることのない餓鬼。「それがお前だ」と。

柘榴坂の仇討

「姿形は変わっても、捨ててはならぬものもまた、文明ではありませぬか」

 

中村貴一主演「柘榴坂の仇討」を見てきた。原作は浅田次郎。と書いたは良いが、僕はこの二人の事をほとんど知らない。僕がこの映画に足を運んだ理由は主に阿部寛と中村吉右衛門である。

阿部寛が仇役だというのはCMやチラシから知っていたが、中村吉右衛門が井伊直弼役だというのはまったく思いもよらなかったのでまずそこで驚いた。何せ話の中心は桜田門外で主君を失った男とその仇なのだから、必定、井伊直弼は早々に死ぬ。彼の演技が少ししか見られないというのは、なんとも勿体無い事だ。(家に帰って調べてみたところ、なんと十九年ぶりの映画出演だったそうだ。ますます勿体無い)流石に七十歳ということもあり、「鬼平犯科帳」のころから比べれば明らかに老けていたが、流石は人間国宝。貫禄の立ち振る舞いだった。作品としても、製作側としても色々事情はあったのかもしれないが、もう少し見ていたかった。

内容としては、江戸時代から明治時代へと急速に移り変わる時流の中で、半ば置いていかれたものたち、即ち武士であったり、その武家社会に纏わる忠や義であったり、情であったり(……勿論こういったものは二十一世紀の現代にも息づいてはいる。が、しかし、大手を振って、世の中の真ん中に存在しているわけではない。そんな中途半端な状態であることを悪用する輩も大勢いる)、そういった、失われたものの美しさ、ひたむきさ……「懐古」「郷愁」とでも言おうか、とにかく、そういったものを上手く調理していると思う。金貸しの無法な行いに対してやあやあ我こそはと次々に名乗りを上げる元武士達のシーンは非常に象徴的だ。

 

 

だが、と僕のようなひねくれ者は思うのだ。だが、いや、だからこそ、その事をおおっぴらに、作ってる側が言うべきではないだろう。「日本のいい映画ができました」とかなんとかチラシに書くような、そんな映画ではないだろう。時代遅れと馬鹿にされたり、冷笑されても、それでも自分の中の何かを貫く。それが武士道だと言うのなら、その考えをこそ、身のうちに秘するべきではないだろうか。チラシやパンフレットに対して怒るというのは、それこそお門違いかもしれないが。

思い出のマーニー

「お願い、許してくれるって言って!」

 

スタジオジブリ米林宏昌監督作品「思い出のマーニー」を見た。「借りぐらしのアリエッティ」は見ていないので、米林の作品はこれが初めてという事になる。

ジブリの鈴木プロデューサーが「男と女の話だとミヤさんがうるさいので女と女の話にしました」などと言っていたのでまたぞろ金儲けの権化がディズニーと手を組んで同性間の愛情でひと儲けしようとしているのかと――なにせ「アナ雪」、「マレフィセント」とそういった類の話が二本続いているので、まあ間違いなくそういう考えは持っているだろうから――なんとも嫌な予感を携えて行ったが、何の事はない。これはまったく「女と女の話」などではなかった。

なるほど確かに、形として見れば「女と女の話」だ。そうとしか言えないだろう。男なんてほとんど登場しないから。キャラクター達を並べれば女と女と女と女・・・と女ばっかりになってしまう。だが、この作品の肝である「マーニー」は完全にアンナの妄想であり、イマジナリー・フレンドであり、自己救済の手段である。この映画で描かれているのは要するに、アンナの独り相撲だ。この作品は「一人の女の話」と呼んだ方が良い。

アンナは明らかに嫌な人物である。人の親切を断る事も出来ず、身の内に鬱憤を溜め、しかもそれを留めておく事が出来ずに爆発させてしまう。このキャラクターの外見が信子と逆だったなら、絶対に好かれる事はないような、可愛いからまだ許されるような存在である。「可愛くないアンナ」はきっとそこら中にたくさんいるだろう。

そこに登場するのが「マーニー」だ。金髪碧眼、宮崎駿に「古い!」と言わしめた美少女の典型。そんな「マーニー」がアンナにとってとことん都合の良い存在であり、またその態度が明らかに男性性への働きかけを意識されていたのを見て、糞のようなアニメを見た時と同様の不快感を覚えた。何があっても主人公(=視聴者)を否定しない優しく美しい女性が存分に男性性を満たしてくれるようなアレだ。ついにジブリまで、このように視聴者の臆病な男性性を満たすだけの作品を作るようになってしまったのか、とも思った。どうか違ってくれと思いながら視聴し、その祈りは無事通じた。「マーニー」が男性性への働きかけを行っていたのはその妄想が元々「男と女の話」に基づいていたからであり、アンナは過去聞かされた物語を自らの妄想の中で追体験することで、自分が捨てられた子供、厄介ものであるという認識を取り除いたのだ。

 

この映画は自己救済の物語である。働きかけが相互するのでなく、自身の中で完結している。これはこれまでのジブリ作品にはなかった事だ。「男と女の話」と鈴木が述べたように、今までの作品は必ず「他人に変えられる」あるいは「他人を変える」物語だった。この変化を僕はあまり好ましく思えない。「人生で大切なのは、ただ生きたという事ではない。自分の人生を通じて、他の人々の人生をいかに変える事が出来たか、それが重要なのだ」とはネルソン・マンデラの言。他人と交わり、お互いに変化してこそではないのか。この作品はそうなっていない。主人公はマーニーに何の変化も与える事は出来ない。当然だ、「マーニー」は幻灯機に映し出された妄想であり、意識も人格も持ち合わせてはいないのだから。

あるいは、ここからもう一歩踏み出し、「妄想の中の人間」と「周囲の人間」の何が違うのかというところまで切り込んでいけば、面白いものになったかもしれない。もしくは時空が歪んで実際にマーニーとアンナが出会っていても良かっただろう。この映画は浅い。映画を見ていて常に次の展開が読めてしまうし、その想定からはみ出さない。それは監督の若さゆえだろうか。それとも。

 

だがまあ、不快感は理解によって取り除かれ、作品として「救済の物語」の体はなんとか整えられている。作画は流石のジブリだ。というわけで、思ったほど、悪くはなかった。米林の今後の仕事に期待する。