この世界の片隅に

「あの頃は平和の軍縮じゃー言うてお父さんも周りの人も大勢失業して大ごとじゃったよ。大ごとじゃ思うとった……大ごとじゃ思えた頃が懐かしいわ」

 

こうの史代原作、片渕須直監督、のん主演「この世界の片隅に」を見てきた。クラウドファンディングで資金を集め、6年かけて製作されたアニメーション映画である。

僕がこの作品の存在を意識したのは、実に最近の事だ。何せ「映画のPV」から知ったのだから。だけど、触れた瞬間にもう、この作品は僕の脳を握り締め、その存在を刻み込んでいった。僕は即座に――なにせコミックスが売り切れていたために電子書籍で入手したので、文字通り即座だ――原作を買って読み、確信を得た。この作品を、全編に渡ってPVの濃度で描いたならば。それは傑作でしかあり得ない。

果たして。その確信を、うず高く積まれた僕の期待を、この映画は遥かに飛び越していった。

この作品は、第二次世界大戦末期、広島から呉へ嫁に貰われた少女すずが、如何にして生きたかという日々の生活を描く。そう、この作品は「日常もの」アニメである。

この評価に、違和感を覚えるだろうか? 他の「日常もの」作品と比べて、何かが違うと感じるだろうか?

ではここで、「日常」について考えてみよう。昨日と同じ今日。今日と同じ明日。しかし、当たり前の話だが今日と昨日は同じものではない。昨日があるから今日があるのであって、今日があるから昨日があるわけではない。ならば「昨日と同じ今日」とはなにか。それは「今日を今日と意識しない」状態である。今日を今日と意識しない状態は、当たり前だが今日を今日と意識しない限り、意識されない。当事者の日常は「喪われることで初めて」その存在が確かにそこにあった事を示すのだ。その日常を喪わせる出来事は何でも良い。それが何であれ日常でないならば、それらは常に唐突に、今日を今日にする。日常が破られ、そして、驚くべき速さで「それら」を取り込んで、今日は霞んでいく。人が知らぬ間に眠りにつくように、日常は知らぬ間に帰ってくる。いつかまた、他の何かに破られるその日まで。

そう。「日常」を描くためには。「破られる前の日常があり、それを破る出来事があり、そしてその出来事を取り込んだ、新たなる日常がある」という、日常の破壊と再生というサイクルそのものを描かなくてはならない。破られない日常は、描く事ができない。光のない世界で闇を描くことが出来ないように。

作中で、すずという少女の日常は、事あるごとに破られる。そしてすずは、その破られた日常を時には縫い直し、時には布を当て、また時には穴の開いたまま、新たな日常として受け入れる。日常の、破壊と再生。何が起きても日常は変わる。その一方で、「日常が変化し続ける」ということは、変わらない。数多の作品が、描かなかったもの。あるいは描かんとして成し得なかったもの。「破られない日常」だけだったり、「破られた日常」だけだったり、という片手落ちでない、「積み重ねる」という行為そのもの。これこそが、「日常もの」と呼ばれるに相応しい作品だ。

 

ここまでは、「原作」の評価だといえるかもしれない。アニメとして、映画としての良さ。それはしかし、やはり「日常を描いている」というものだ。このアニメ映画は、原作と分離独立して存在するものではない。だが、原作ありきでなければ味わう事の出来ないものでもない。原作を内包し、その描写表現を色彩と、動きと、そして何よりも時間の不可逆性を以って増幅している。アンプのついたギターが奏でる音のような存在なのだ。ギターから発された音が、電気信号に変換され、その信号に基づいてスピーカーから振動が放たれる。その一連の流れこそがこのアニメ映画だ。一方で、僕が受け取るのはやはり、「大きな音」であり「ギターと同じ音」でしかなく、しかしそれは単に「音が大きかった」とか「ギターと同じ音だった」とか、そういった言葉で到底言い尽くせる物ではない。その表現で間違っているわけではないが、明らかに不足しているというこの感覚を説明するには、こう考えるのが一番なように思える。即ち。この映画は、体験であった。

聲の形

「ちゅき!」「え、ああ……月? 綺麗だよね」

 

大今良時原作、京都アニメーション製作のアニメ映画「聲の形」を見てきた。

とても綺麗な映画だった。そしてなによりも、耳に訴えかける映画だった。テーマとして、そして映画として、それが良いことだったのか、それとも皮肉になってしまったのかどうかは一介の視聴者である僕には定かではなく、また僕個人は見ていてとても楽しかったのだけど、そういうのとは一段違う場所で。どうにも気になってしまった。

耳に訴えかけるという言葉の意味は、いくつかのシーンで、絵と音の主従関係が逆転していたように思えたという事だ。映画のBGMというよりも、ミュージックビデオというような。映像のための音でなく、「音のための映像」になっていたような。これが意図しての演出なのか、結果としてただそうなっただけなのか。そこのところが気になって気になって仕方がない。スタッフトークで監督への質疑応答があるかと思ってドキドキワクワク待っていたのだが、残念ながらそんなものは無く、聞くことが出来なかった。

内容を考えると、よくぞあの漫画をこのように纏め上げてくれたという喜びと、これ漫画読んでない人付いて行けるのかな?という不安がないまぜになる。映画「予告犯」にも感じ、レベルは違うが「スターウォーズ フォースの覚醒」にも存在した不安。「話を進める上でどうしても必要だけれども尺を取れない」という部分を、既読者への目配せによって済ませてしまう事による温度差だ。これに関しては漫画を読んでいない状態で映画を見た方に聞くほかないのだが、この映画は、未読者を置いていってしまう映画ではなかっただろうか。

 

と、見方によっては不平か不満のようにも聞こえかねない事ばかり書いてきたが、しかし楽しく、美しく、そして原作同様に心に爪痕を残す映画だったのは確かだ。マンションから花火が見えるシーンの湛えている情感は恐ろしいものがあった。永束くんは独りで「日常」をやっていて面白かったし、声優の演技も目を見張るものがあった。入野自由の特に驚いた時の素っ頓狂なイントネーションは聞いていて心地よかったし、結弦の声優が悠木碧である事など、スタッフロールで見るまで意識しなかった。いくつもの「気になる」を残したと言うのにしたって、僕は不満を抱いているわけではない。ただ、気になる。誰かに聞きたい。とても、気になるのだ。

THE HATEFUL EIGHT

「メアリー・トッドが呼んでいる。 床につく時間だ」

 

タランティーノ監督の「ヘイトフル・エイト」を見てきた。凄惨にして酸鼻。しかし悪趣味に振れ過ぎずどこか爽やかに纏め上げている、見事な映画だった。登場人物はどれも味のある魅力溢れるキャラクターなのだが、その中でもサミュエル・L・ジャクソン扮するウォーレン少佐がもうとにかくカッコよくてカッコよくて。

チケットを購入するときに初めてこの映画がR18と知り、かなりビクビクしながら映画に臨んだ。グロテスクの領域には入らないものの、やはり007やポアロのような「バーン!」という銃声と共に銃口が光って誰かがうめきながら倒れる、という演出とは違うレベルのダメージ表現で溢れているので、ゴアが苦手だという人は気をつけて見ると良い。僕は後半何度か手で目を半分覆いながら見ていた。

開幕からの数分間がとにかく素晴らしい。西部劇風のタイトルコールで始まり、出演陣の名前を表示する間、十字架の向こう、雪山を遠くからずんずんずんずん馬車が近づいてくる近づいてくる近づいてくる。その焦らせ方一つを見ても、いっそ新鮮にすら感じてしまう。開幕から焦らされる映画といえば僕の中では「案山子男」なのだが、まああれとは比べるのも馬鹿馬鹿しいからやめておこう。見ていた感覚としては「2001年」が近いかもしれない。じっくりとした時間の使い方。展開が多くどうしても矢継ぎ早に事を起こさざるを得ない最近の映画との違いは、何と言っても上映時間3時間に現れているだろう。しかも、ただの3時間映画ではない。同じように3時間を使った映画としては「ウルフオブウォールストリート」や「インターステラー」がパッと出てくるが、このどちらもがその3時間に目一杯にコンテンツを詰め込んでいるのに対し、こちらは2時間では詰め込みすぎになる内容を、「では枠の方を広げましょう」といった具合で作っているように感じられた。きっちりと物が収められているが、随所に心地よくなるような余裕があるのだ。一部の隙もなく収納されたパンパンの鞄と、整頓されコトコトと小気味良く音を立てる鞄。このどちらに軍配を上げるかは個々人の好みに依るだろうが(ちなみに僕はどの作品も大好きだ)、とにかくこの映画は贅沢に、じっくりと、まさにシチューのように拵えられた作品だった。

 

ただ、一つだけ言わせてほしい。誰が言い出したのか知らないが、この作品を「密室殺人ミステリー」なんて銘打って売るのは、いくらなんでも違うんじゃないか?

百日紅~Miss HOKUSAI~

「お前のような了見のもんに、本物のもののけが見えてたまるかよ」

 

杉浦日向子のコミックをアニメーション映画化した原恵一監督の「百日紅」を見て来た。

絵は良いが話が悪い。音は良いがセリフが悪い。シーンシーン単体ではこれは、と思うところも確かにある。だが、通して見ていて苦痛。そんな映画だった。もう本当に声優がひどい。音響だか演技指導だかは何をしていたのか。聞いていて違和感が無かったのは男娼と、まけても善次郎ぐらいのものだった。

がっかりである。僕は二週間ほど前に原作コミックを本屋で発見し、購入してそのまま読んだ。大変楽しく読んだのである。当然、この映画にも胸を膨らませ、期待を大にして劇場まで足を運んだ。そのわくわくは最初の十分ほどでしぼみ、途中からは帰りたいとすら思った。それほどに期待はずれの、「つまらない」映画であった。

まずエピソードのチョイスがひどい。何故真っ先に龍の話を持って来たのか。あのエピソードは北斎とお栄の関係や、お栄の力量をある程度見ている人間に伝えてからやるべきものだ。ただあれを見せられたんじゃなんの面白みも無いわ。ただ単にアホな娘が絵を台無しにしただけのことになってしまう。いや勿論それは間違っていないし、事実そういう話なのだが、しかしそれだけではない。それだけで終わらせないだけの面白みがある話を、ただ間抜けなものに仕立て上げている。がっかりだ。

次に、エピソードからエピソードへの転換がひどい。ただの場面転換なのか、次のエピソードに移ったのかがさっぱりわからん。二つの転換に何の違いも無いからだ。それでいて季節は動くわ着ている服は変わるわ、見ていて混乱する事甚だしい。しかも複数のエピソードを切ったり貼ったりして無理矢理な繋ぎ方をしやがる。どういう基準でエピソードを選び出したのか問い詰めたいものだ。

 

この映画は全てがひどい、というものではない。エレキギター(だろうか。楽器には疎いのでこれと断定する事はできないが)とともに江戸を映す開幕は非常に良かったし、橋をくぐるシーンや黒雲の中にうごめく龍、ススキ野原を駆けていく両手など、絵や動きは見ていて面白い。見所となるシーンはいくつもある。だが、それと糞のような脚本だかセリフだかが同居する。声優陣も聞いてて違和感を覚える。話もわけのわからん切り方繋ぎ方選び方をする。悪い点が多すぎた。

なので、僕と声やキャラクター造形の好みが異なるという人は楽しめるかもしれない。その点に関しては保証はしない。

papusza

「何を書いてるの?」「詩だよ」「詩って?」「昨日思ったことを、明日思い出すためのものさ」

 

僕はこの映画を、どう見れば良かったのだろう。

この映画はジプシーでありながら詩を作り、ポーランド史に名を刻んだ女性、ブロニスワヴァ・ヴァイスに関するものだ。

僕は彼女を知らない。その詩も知らないし、詩という媒体自体をほとんど知らない。ポーランドにおけるジプシーが「どのようなものであったか」も知らない。そんな僕から見たこの映画は、ただ悲しいだけの映画だった。

勿論、楽しいシーンはあった。ジプシーたちの彼ららしい生活や、留置所に捕らえられても、中で明るく音楽をかなでる様などは見ていて楽しかった。

だが、この映画が映すのはジプシーがジプシーでいられなくなってしまう時代だ。無理解か、あるいは非寛容ゆえに、彼らはジプシーとしての生活を奪われた。

しかし一方で、当のジプシーたちもまた、彼らの持つ無理解か、あるいは非寛容さを以って、パプーシャを攻撃した。

2年間ジプシーと共に暮らし、ジプシーに関する本を出したイェジ。彼もまた、無理解か、あるいは非寛容によって、ジプシーとパプーシャを傷つけた。

だが。無理解や非寛容は、それすなわち「価値観」だ。何かを良しとする基準こそが、ほかの何かを傷つける。悲しいことだが、それは悪いことか? 僕はそう思えない。全てを理解し、全てを許すこと。何物も傷つけないというその状況は、対極であるはずのあらゆる無理解、徹底的な非寛容と何も変わらないのだ。問題は程度であり、そして程度が問題である限り、この問題は解決しない。

イェジに手を振るパプーシャに、監督がどんな思いを込めたのか。そんな事すらも僕は読み取れず、ただ眺めているうちに、映画は終わってしまった。

この映画は確かに、悲劇を映している。だが僕はこの映画を、いったいどう扱ったらよいのかわからない。この映画はただの記録なのではないかとすら考えてしまう。僕がポーランド人だったなら、思うところがあったかもしれない。僕がジプシーだったなら、思うところがあったかもしれない。僕が詩人だったなら、思うところがあったかもしれない。

 

だが、僕は何れでもなく。見ていてただ悲しいとしか思えなかった。