超高速! 参勤交代

「鯛は返して食う二日目が旨い」「鯛は旨いところが少ないのぉ」

 

先輩に勧められ、「超高速! 参勤交代」を見た。「女がいなければ・・・」と映画が終わってから一人呟いてしまった。乱暴な言い方になるがこの映画に女が出演していなかったら僕の評価はずっと高かったろう。女が、というのは正確ではないか。正しく言うならば「恋愛要素がなければ」ずっと高かったろう。僕はコメディと恋愛は噛み合わせが悪いと思っている。茶化すなら色恋沙汰ごと茶化す方が面白かろうが、どうもつまらん恋愛をさせたがるのが多い。そういうのが苦手だ。コメディキャラクターが真剣になる部分はコメディ映画の常として必ず存在する。時代物なら尚更だ。だからこそ、他の部分では目一杯馬鹿でいて欲しい。その緩急、空気の揺れ幅こそが、場を引き締める。更に言うならあの側室になった女郎と上地にゾッコンの妹君が作品において一体どんな要素を果たしたと言うのか。藩主は女郎に出会う前から土地を愛し、民を愛していたし、不正不義を憎んでいた。また上地がハメを外したのにも妹君はなんら関与していない。見ていて面白くもないし、何らかの文法的意味も感じられない。あの映画に恋愛要素を入れる必要はあるのか。僕はいらないと思うが。「パシフィック・リム」の時にも強く思った疑問だ。

笑えるシーンがいくつも存在する。コメディとして非常に良い事だ。だが、なんといっても主演の佐々木蔵之介がちょっと面白すぎる。顔の造形は知らないが、彼の出す表情が読売巨人軍監督の原辰徳にそっくりなのだ。驚く顔、目を剥く顔、事あるごとに原の顔芸が思い出され、映画的にはマジメ寄りのシーンでも顔を伏せて笑ってしまったので周りの客には悪い事をした。

先輩からこれはと薦められた殺陣は中々良かった。特に忍者たちが回避やダメージ表現のために空中でクルクルと回転するのが良い。あのような派手な動きは見ていて楽しい。最後にわらわらと人が出てきて大立回りを演じるのも往年の時代物らしくて良かった。ワイヤーを使っているシーンは流石に慣れていないのか違和感が凄かったが。

 

主役はともかく脇を固める役者の演技、特に若い家臣達はそう上手いとも思わなかったが、脚本のお陰かそこそこ見れるものにもなっていた。総合的に考えるなら面白い映画という事になるだろう。ああ、口惜しい。糞ほどの魅力もない恋愛要素が無ければ太鼓判を押せたものを。

太秦ライムライト

「監督さん、太秦にエキストラはいません。みんな演技者、表現者です」

 

50年斬られ役を演じ続けたという名脇役、福本清三の初主演作品「太秦ライムライト」を見た。

どうにも、奇妙な映画だった。間違いなく映画である。つまりはお話であり、お芝居である。なのに、何故かドキュメンタリーのようにも見える。これは制作陣の実感こもった情景描写、演出によるものなのだろうか。

土台、主演の福本清三という役者自体が、奇妙な雰囲気を湛えていた。肋骨の浮いた、まさに老骨というような薄い胸板が見ていて痛々しいほどだが、その立ち振る舞い、刀捌きはとても七十とは思えない。言葉もしっかりしている。そうか思えば、時折ああこの人は老人なのだと再認識させるような喋り方にもなる。

芝居なのか、素なのか。

服の解れを直す姿。豆腐を切り、味噌汁に落とす仕草。あれは、香美山清一という役だったのだろうか。それとも、福本清三という役者だったのだろうか。

いずれにせよ、時代劇が減り、その“殺陣”役者達が数を減らしているという状況は現実のものだ。その現実を打破するために僕ができることは、やはり、時代劇を見るということしかないだろう。劇場でCMを打っていた「柘榴坂の仇討」(半ば明治時代の話らしいので時代劇と呼べるか不安だが)を見に行こうと心のメモ帳に書き記した。

 

映画のほかの部分に触れていなかった。

エンドロールを見ていると、やたら外国人のスタッフがいた。エンドロールや最初の説明文も英語が併記されていたし、海外向けに売り出すのかもしれない。京都は未だに石を投げれば外国人に当たるほどだし、注目されると良いのだが。実に日本の軽薄なドラマらしさを醸し出している劇中劇を見て呆れられてしまうんじゃないかというのが不安だが、あれもまた日本の映像界の現実である。あんなもんばかりでは無い事を祈るばかりだ。

MANDELA

「力を」「民衆に」

 

南アフリカ共和国第八代大統領ネルソン・マンデラの自伝を映画化した「マンデラ 自由への長い道」を見た。

この映画は僕が漠然と、歴史上の一行としてしか知らなかったアパルトヘイトの一端を教えてくれた。そして、それ以上に、僕を恐怖させた。

南アフリカでホワイトの支配をブラックが打ち破った。これはただそれだけの問題ではない。世界の至る所で、長らく続いていた支配の一部が手放された、そんな時代だった。その機運が、ネルソン・マンデラを終身刑から救い、彼を大統領たらしめ、ノーベル平和賞まで受賞させた。

だが、現在。

二十一世紀が七分の一終わった、今この時。世界は未だ、無数の支配と搾取、そして差別に溢れている。

かつて。マンデラ達は戦った。日本も戦った。ベトナムもイラクも戦った。インドネシアも戦った。アメリカも戦ったし、ソビエトも中国もヨーロッパも、世界中が戦った。ある者は勝利し、ある者は敗北した。

だが、今。世界は変わらない。法の後ろ盾を失っても人種差別は残る。白人の支配から解放されたかに見えたアフリカではそこかしこで内戦が続いている。日本では「サヨク」という言葉自体が忌避されている。大国はその身の内に火種を抱え続け、希望に溢れていたEUにもいくつもの綻びや亀裂が入った。戦いでは世界を変えられない。彼らは戦いたくて戦ったのではない。戦わざるをえなくなって戦った。そこまで「追い込まれた」のだ。「正義は我にあり」「間違っているのは彼らだ」そうやって、自分達を正当化し、鼓舞し、戦った。戦うためには必要なことだ。だが、支配と戦い、その場の支配者を倒すことは出来ても、「支配」に勝つことは出来ない。

「支配」はこの上なく狡猾だ。彼らは敗北さえも飲み込んで、新たな支配を生み出す。

彼らは戦うしかなかった。耐え難いほど支配され、戦うことによって、自らの正義によって、「支配」を倒せると信じた。

僕は知っている。戦っても、「支配」は倒せないと知っている。

まず認めよう。僕は「支配」のおかげで今を保っている。僕は「支配」に生かされている。勿論、今僕の世界を支配しているルール全てを肯定しているわけではないし、そのルールを今よりもっと不愉快なものにしようとしている連中に対して怒りを覚えることもある。

だが、だからと言ってどうすれば良いのだ。僕は死にたくないし、殺したくない。そして、誰かを殺しても世界は変わらないと知っている。皆が変わらなければ世界は変わらない。しかし、自分を変えるというその行為自体を恐れるような、そんな人間が他人を変えられるものだろうか。

こんな悩みを抱くのは、幸福であり不幸だ。正しさに盲目的にならなくてもよいほど、僕の世界は豊かだった。脇目も振らずに追い求めなければならないものが、僕の世界にはなかった。そのせいで僕は今悩む羽目になっている。世には「正しさ」が溢れているが、どれを選んだって、この問答が僕を苛む。お前の選んだその「正しさ」の正当性を、誰が担保してくれる?

そして、僕は佇み続ける。自らを委ねるに足る、正しさを求めて。

だが、いつまでもこのままではいられない。変えなければならない。今切羽詰っていなくても、いつか、のっぴきならない状態がやってくる。

その時、僕は、戦わずに、ネルソン・マンデラと同じ事をしなければならないのだ。

 

それが恐ろしい。

サカサマのパテマ

「パテマってこんな顔だったんだ」

 

「イヴの時間」の吉浦康裕が監督した劇場アニメ「サカサマのパテマ」を見た。空に落下する少女の物語。

凡人がナウシカとラピュタを捏ねくりまわしてひり出したようなアニメだった。一言で評するなら「退屈」。浅い上にありきたりなキャラクター造形の数々。「このような歴史があったら人はどう生きるか」という想像力をちゃんと働かせているかと問い詰めたくなるような、曖昧で漠然とした世界観。そんなぼやけた世界なのに冒頭の15から20分ほど、言葉での説明を一切しない。その癖映像でも説明できていないから見ていて作品に入りこめない。視聴者とキャラクターが乖離している状態にも関わらずタイムスケジュールに従って話を動かすせいで上滑りし続ける。いつ面白くなるのかと耐え忍んでいたら90分たってアニメが終わってしまった。各シーンを指してここはどうこうあそこはどうこうと言うのはいつだったかも書いたがブログでやることではないのでしないが、全体を通して余りにも作りがぬるすぎる。「イヴの時間」はそこそこ楽しめたので楽しみにしていたが、期待はずれだった。

 

可愛い見た目の女の子が主人公と抱き合っていれば満足する人は楽しめるのではないだろうか。劇場アニメでやることかは疑問だが。

THANK YOU FOR SMOKING

「バニラが一番の証明は?」「お前の間違いを証明すればいい」

 

クリストファー・バックリー原作「サンキュー・スモーキング」を見た。タバコが体に良いか悪いかだって? そういう話をしにきたんじゃないよ、という男の物語。

 

作品としては凡作以上傑作未満と言ったところ。楽しい作品だった。くっだらないジョークや役者のコミカルな演技は映画に実に良い色を添えていたが、この作品で語られているような内容は本や漫画を読み映画やドラマを見ていれば五百回は目にするだろう。いや流石に言い過ぎたが両の指は超えるはずだ。つまり「お前が決めろ」「絶対的な正しさなんて存在しない」「言い負かしたら勝ち」とまあ、こういった話だ。個人的にはこういった言葉のやり取りで重要なのは「嘘をつかない」だと思っているがまあこれは「言い負かしたら勝ち」に含まれるかもしれない。嘘は相手が付け入る隙になってしまうから。人を説得するというのはすなわち相手の考えを変えるということで、口が立つというのは詐欺師と同義だ。そして詐欺師は嘘をつかない。ああ違うな。「相手にわかるような嘘をつかない」というべきか。

ただ、昔からこの手の映画は(映画に限らないから作品を書くべきかもしれない)馬鹿を要領の良い人間がやり込めるばかりで、頭の良いもの同士がお互いの強み弱みを駆使して舌戦を繰り広げるような作品が少ないのがなんとも物足りない。例えば弁護士と検事なんて代理戦争には持って来いなのに、何故「真犯人を庇う悪徳弁護士」対「正義の検事とそれに協力する警察」とか、あるいはその逆で「無実の人間を守る正義の弁護士」対「真実なんてどうでもいい悪い司法機関」みたいな構図しかないのだ。いや、それでも良い。勧善懲悪で全然良いのだけど、余りにも愚者対賢者の戦いが多すぎやしないか、とちょっと食傷気味になってしまった感は否めない。「ニューオリンズ・トライアル」みたいに両陣営の努力や知性が伺えるのが好きだ。アメリカの法廷ドラマは僕のこうい嗜好を満たしてくれる作品が多いので気に入っている。「スーツ」も結構良いラインいってたがたまに実家に帰ったときぐらいしか見れないのでエピソードが飛び飛びなのが悲しい。レンタルビデオ屋が微妙に遠いのも悲しい。ああ、でもやっぱり善とか悪とか取っ払ってお互い高い職業意識だけを携えて舌戦を繰り広げるようなのも見てみたいな。外道だろうがお構いなしに免罪させる有能弁護士VS目の前の被疑者をムショに叩き込むことしか考えない役人とか、誰か書いてくれないものかな。

 

僕の個人的な一番のビックリポイントはBRを演じていたJ・K・シモンズの存在だ。この人は結構好き。僕はドラマでしか見たことがなかったが、映画俳優もやるのかとWikipedeaを読んでみたら、映画のほうにもしっかり出演していた。恥ずかしながら一作も見た記憶がない。その下に書いてあった

平成狸合戦ぽんぽこ 青左衛門 英語吹替え

を見てここでまたひとつビックリ。なるほど、アニメの吹き替えか。こっちはほとんど手を出していない。今度英語吹き替えの入ってる奴を借りてきてみようかな。