白ゆき姫殺人事件

「赤星。おれの言ってること、全部本当だと思うか?」

 

映画「白ゆき姫殺人事件」を見た。何時ぞや劇場で見たCMに心を惹かれて見に行ってみたが、当たりだった。

人間は適当な生き物で、自分を正当化し、納得できるような物語を作り上げる。そして、それは自覚的な場合も、無自覚的な場合もある。全編を通して、そんな人間達が描かれていた。

この映画はミステリーだと紹介されているが、トリックや真犯人や、多分そんな事はテーマじゃない。この映画の中では、殺人それ自体がマクガフィンだ。別に人殺しじゃなくてよかったし、更に言えば事件じゃなくても良かったのだと思う。この映画は、ひたすら普通の人を映している。取材内容やタレコミを逐一ツイートする赤星雄治は実に無神経で考えなしだ。だが、こんな人間は山ほどいる。その情報を元に大して裏取りもせずワイドショーを作るメディアはとても浅慮だが、これもどこにでもある光景だ。そして、それを見て笑い、嘲り、中傷する不特定多数。これは正に僕であり、あなたである。我々は眼にした情報を大して咀嚼もせず飲み込み、ピーピーとわめき散らす。それが間違っていたとわかって謝る人間はほとんどいないし、バツの悪そうな顔をする者さえ珍しい。ほとんどの人間は手のひらを返し、そ知らぬ顔で、今までとは反対側に立って同じ事を繰り返すのみだ。

日本の映像は軽薄だ。無論全てではないが、ドラマも、映画も、ニュース番組でさえ、上っ面だけまじめな皮を被って、中身はボロボロなものが沢山ある。これは作ってる連中だけ問題じゃない。見てる側だってそれを望んでいるのだ。薄っぺらく、軽く、浅く、そんなものを求めているのだ。この映画は、そこのところを巧く作品に落としこんでいる。アホがまじめぶるのは見ているだけでいらつく。だが、アホがまじめぶる映画は、その演技が真に迫れば迫るほど、良い。劇中に出てくるニュース番組は、おそらくテレビ会社のそっちの畑の人間が協力しているのだろう、恐ろしく真に迫っていて、これがテレビで流れたら本当のワイドショーだと勘違いしてしまうのではないかと思ってしまうほど出来が良かった。(つまり、それほどまじめを装った軽薄さを醸し出していたという意味だが)ツイッターで好き勝手につぶやく人間も、実にそれらしい。無軌道、無思慮、無責任。それは事件のインタビューを受けるさまざまな人間にしてもそうだ。自分に都合の良い物語。自分視点で綴られた歴史。そのどれが正しいかなど、問題ではないのだ。そして、この映画の凄いところは、「だから悪い」という安易な結論を出さない所だ。この映画は断罪しない。キャラクター達を実に滑稽に描いているが、しかし一方でそれはただ、彼らのありのままを映しているだけなのだ。

 

この映画に名探偵はいない。いるのはただ、「普通の日本人」だけだ。

THE ACT OF KILLING

「共産主義者はそんなに残酷ではなかった。おれ達のほうがもっと残酷だった」

 

ジョシュア・オッペンハイマーの「アクト・オブ・キリング」を見た。1965年にインドネシアで行われた100万人規模の虐殺。その加害者たちによる、殺しの再演。

この作品はドキュメンタリーである。銀幕の向こうに立っているのは役者ではなく、全てが当事者だ。

この映画が世界に向かってたたきつけるのは、1000人殺したインドネシア人と視聴者に、何一つ違うところなどないのだという絶望的な事実だ。彼は特別な人間ではない。結果的に突出した人間にこそなったものの、ごく普通の、いやそれよりももっと親しみやすい、孫を愛し、友と酒を飲み交わすのを喜ぶ、気の良い爺さんだ。彼は異常者ではない。自らの行いを正当化しているが、その一方で負い目を感じ、悪夢にうなされる。自らの行為を「演じる」ことで客観性を獲得し、その正当性すらも半ば失う。僕はこの老人を責める気にはなれなかった。それは甘いのかもしれない。幼いのかもしれない。知らないだけなのかもしれない。その通りだろう。僕が共産主義者として引っ立てられて拷問されたなら。僕の友人が、家族が、殺されたなら。僕は彼を許す事が出来るだろうか。責めずに居れるだろうか。難しいだろう。憎しみに身を焦がし、恨みを抱いて一生を過ごすだろう。

だが、一方で。僕がその場にいたら。映画館の前でダフ屋を営み、大入りを連発するハリウッド映画のチケットで生計を立てている最中、共産主義者がアメリカ映画排斥運動をしたら。そいつらを打ち倒す絶好の口実と力を手に入れたら。僕は踏み止まれるだろうか。それもまた、難しいと考えざるを得ない。キリストは言った。罪を犯したことのない者だけがこの女に石を投げよと。僕は、僕たちは、この老人に石を投げる資格があるのか?

トロッコ問題というものがある。このまま進むと五人の作業員が轢かれて死ぬトロッコの分岐器の前にあなたが立っている。分岐器を起動すれば五人は助かるが、進路の変わったトロッコに轢かれて一人の男が死ぬ。あなたは分岐器を動かすか? という有名な心理実験だ。僕が母にこの問いを出した時、彼女は言った。「そういう究極の選択をしなくてはいけない状況になりたくない」と。当時僕は質問への回答になってないじゃんとかそういう事を思ったと記憶している。だが、この映画を見て母の言っている事が理解できた気がする。この状況になったら、どうする? 僕がアンワル・コンゴだったら、どうする?

考えたくもない。僕は殺すのも殺されるのも飢えるのもまっぴらごめんだ。

一方で、僕はこの映画を見たときと非常によく似た心境になった経験がある。フィリップ・ジンバルドの講演「普通の人がどうやって怪物や英雄に変貌するか」を見た時だ。この動画でジンバルドが言っているのは、まさにこの映画を通して語られる事と同じことだ。つまり、誰だって――あなただって僕だって、血も涙もない冷酷な虐殺者になりうるのだということだ。だが、とジンバルドは言う。逆に言えば誰だって英雄になれるのだ、と。

「アクト・オブ・キリング」は強烈だ。わかりやすい悪なんてどこにもいない。対立構造の正当性も誰も保障してくれない。自分自身の正しさすら揺らぐ。人によっては、これまでに培ってきた価値観をひっくり返されかねない。とんだセンス・オブ・ワンダーもあったものだ。これをいきなり見たら、相当堪えただろう。僕がある程度耐えられたのは、きっとフィリップ・ジンバルドのおかげだ。ほかの人にどれだけ効果があるかは保障しかねるが、もし「アクト・オブ・キリング」を見て後を引く何かがあるなら、彼の講演を聞いてみてほしい。少しは気が楽になるかもしれないから。数年前にニコニコ動画に投稿してくれた誰かさんには本当に感謝している。

SAVING MR.BANKS

「僕たちにはケルト人の魂がある。ここにあるものは全部幻だ」

 

「ウォルトディズニーの約束」を見た。映画「メリー・ポピンズ」の制作秘話。原作者P.L.トラヴァースとウォルト・ディズニーによる、許しの物語。

「メリー・ポピンズ」は僕の大好きな作品だ。これと「チキチキ・バンバン」、「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」、「サウンド・オブ・ミュージック」が子供の僕にミュージカルの楽しさを教えてくれた。その「メリー・ポピンズ」にまつわる話となれば、何を差し置いてでも見に行かざるを得ない。

なにより、その大きな魅力である歌やアニメーションに対して原作者が否定的だという構図は興味をそそる。ウォルト・ディズニーがこの一見してわかるほど気難しそうな女性をどう説得するのか、実にワクワクしながら見に行った。

そして、衝撃である。結局、ウォルト・ディズニーは彼女を説得できなかった。同じ経験をした自分を「信じてくれ」と言う事しか出来なかったのだ。

そこに、この映画の妙がある。

P.L.トラヴァースは最後まで、映画「メリー・ポピンズ」に諸手を挙げて賛成する事はない。それでも、彼女はきっとこの映画を気に入ったのだろう。完成披露での涙は、決して「アニメが酷かったから」だけじゃないはずだ。まあ本当にそうも思っていたかも知れないが。皮肉屋で、傲慢で、素直じゃない。実に古き英国人らしい人物像だ。

そしてまたこの邦題が憎い。ウォルト・ディズニーの約束。ウォルト・ディズニーは何を「約束」したのか? その一つの答えが原題「Saving Mr.Banks」なのだ。邦題を誰がつけたか知らないが、良いセンスをしている。原題もとても素晴らしいが、日本人には「バンクス氏」と言われてもイマイチピンとこないだろうし、意訳にも限度がある。一方で、ウォルト・ディズニーを知らない日本人はほとんどいない。邦題で足を運び、作品を見て、そして原題に立ち返る。これならば、きっと「メリー・ポピンズ」を知らない人にだって、両作品の素晴らしさが伝わる事だろう。

 

「メリー・ポピンズ」を見た事がある人は、是非見に行くべきだ。「メリー・ポピンズ」を見た事がない人は、まず「メリー・ポピンズ」を見てから、見に行ってほしい。

そして、いずれにしてもこの映画を見終わった後は「メリー・ポピンズ」が見たくなるのだ。僕は雨が上がったらビデオ屋さんに行く。

THE WOLF OF WALL STREET

「俺はしらふじゃ死なん!」

 

レオナルド・ディカプリオ主演、実在の人物ジョーダン・ベルフォートの自伝を元に作られた、「ウルフオブウォールストリート」を見てきた。

開幕早々、上司が「俺たち株屋にだって株があがるか下がるかなんてわかりゃしない」とぶちかまし、ランチの席で酒を注文しコカインを吸いながら、「俺は一日二回はマスを掻く。お前もそうしろ」と告げる。この映画がどういう映画であるかの説明を、これ以上ないほど簡潔に、そして完璧に表しているといっても過言ではあるまい。

この映画で描かれるのは「如何にして株で儲けるか」なんていう詐欺めいた訓示じゃない。その訓示を垂れる詐欺師の方だ。湯水のような金、冗談じみた量のドラッグ、そして過激で過剰なFuck。そんな現代の快楽にドップリ首まで漬かった彼らはとても煌びやかで、華やかで、ブッ飛んでて、楽しそうで、でもやっぱり歪んでいる。

音楽が素晴らしかった。映像にビタリとマッチした選曲で、世界に観客を飲み込む。特にビリー・ジョエルのMovin’ outとサイモンアンドガーファンクルのMrs.Robinsonは子供の時からよく聞いていたため、映像と記憶がごちゃごちゃに入り乱れて訳のわからない精神状態になった。

この映画は三時間近い上映時間だが、その時間を感じさせないほど楽しい。俳優の演技も、脚本も演出も、「見ていて楽しい」ように細部にわたって気を使っている。入社直後にブラックマンデーが起きて会社を首になった不幸な男の、圧倒的なまでの成功譚。見よ、彼こそはアメリカンドリームの体現者。だが、それだけじゃない。溢れんばかりの金を手に入れ、絶世の美女を手に入れ、四肢が動かなくなるほどのドラッグを手に入れ、それで「めでたしめでたし」、そうは問屋がおろさない。FBIに捕らえられ、二人目の妻とも離婚。自分の会社と仲間を売る羽目にもなった。主人公自身も嫁の腹を本気で殴るし、娘を死なせかけるし、下り坂では本当にどうしようもない男だ。彼らの生活を肯定するような描写にはなっていないし、インタビューでも監督が「他人のことを考えないのは野蛮人だ」と述べている。「気持ちいい」だけで終わってはいけないのだ。

ちなみに映画は刑務所から出て講演会をしはじめた所で終わっているが、未だに金にはがめついらしく2013年FBIに告訴されたとか。

 

この映画はとても過激だ。R指定だし、ドイツもコイツも酒と薬をキメ倒してセックスしまくるし、単語と単語の間には必ずと言っていいほどFUCKが入る。だから誰彼かまわず見ろと薦めるのは気が引ける。

だが、ディカプリオの映画を見たことのある人には文句なしにお勧めする。彼がこれまでに出演した映画で培ったであろうさまざまなエッセンスが詰まっている。とくに「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」を楽しめた人には、是が非でも見てほしい。この映画のディカプリオは、言うなればそれのIFだ。それにしても「華麗なるギャツビー」といい、ディカプリオは残念な金持ちが嵌まり役すぎて恐ろしいほどだな。